「コラム 最終回1」
強力な人工知能の出現による第四次産業革命は、これまでの第一次、第二次、および第三次産業革命とは根本的に様相が違っていることを承知しておかなければならない。
第一次から第三次までの、これまでわれわれが知っている変革は、道具もしくはモノが前の変革期のモノより省エネルギーで、かつ少資源で製品化され、しかも以前のモノよりさらに高機能化されている。その上、その製品は短時間で製造されることにより、『モノの生産効率』は飛躍的に向上した。
そして、これまでの革命は革命と革命との間が、千年ないし百年という長い期間があり、人びとの心も体も、そして社会制度も、多少の混乱を伴いつつもその変革に対して再組織化し、人も対応することができていたということだ。
ところが、いま進みつつある第四次産業革命は、『人間の知能』を飛躍的に向上させた人工知能による変革であり、これまでの産業革命とはまったく異質なものであると同時に、第三次から第四次産業革命に移行する時間が20数年とあまりにも短いことにある。
人工知能の発達による第四次産業革命はこれまでとは全く異質な2つの問題点が存する。
1つは、技術の発展があまりにも早いため、人びとが新しい産業に対応するための必要なスキルが足らず、追いついていないということだ。
その結果として、新しく生まれた企業に労働者が不足しているにもかかわらず、就職することが難しいことになる。
2つ目は、新事業を立ち上げた新進気鋭の企業においても、事業が発展する中で新人を採用するのではなく、生産効率をさらに向上させるために生産過程にIoTや各種のロボットを導入することだ。
これらの新事業主たちは、IoTやロボットの使用に長けている人たちであるから、ヒトを採用しないことに何の躊躇(ためら)いも疑問も感じることはない、ということだ。
第四次産業革命は誤解を恐れずに記すならば、われわれホモサピエンスが誕生して以来20万年の間、これまでに努力し構築してきた知識や知能、修練してきた技能の全てを手放すことを強いられているのである(もちろん一部の天才や芸術家、技能の熟達者は別だが)。20万年もの間、延々と構築してきたさまざまな知識と技能のすべてをだ。
その覚悟が必要だ。
これまでの知識と技能を手放すという行為は、生命誕生以来これまでに築いてきたDNAの習性と真っ向から対立することになるのではないだろうか。
しかも、ホモサピエンスが数多の自然現象を発見し、法律や哲学、宗教を含め、いろいろなモノを発明するという習いから、人類の最大かつ最高の発明となるかもしれない人工知能によって、われわれ自身が高度な知能を使う職業や職場から放逐されようとしている。もちろん農業を含めモノを作るという生産現場から多くの人びとはいなくなるだろう、ということになるのだが…。
真の人工知能やコグニティブコンピュータを手にし、神の手を持つことになる人類は、超人類として次の高みに登るとき、何の痛みやトラブルなしに至ることは、もはや不可能と思える。
人工知能の開発を精力的に推進する人たちの中には、「仕事をせずに好きなことをしていればいいのだからいいじゃないか」、という意見もあるが、果たしてヒトは好きな事だけをしていればそれだけで本当に満足し、心身ともに充足した人生を送ることができるのだろうか。
生命科学の発達によりこの先150年、200年と長生きができ、生き続けることも可能になるという。われわれは、このような世界を快く受け入れ、次世代のあるべき姿だと素直に喜び望んで良いのだろうか。
人工知能の進化、発展、そして完成に向かう過程で、ヒトに必要なことは知能ではない。これまでは、社会的地位やお金を得るのに個人の知識や知能が重要なファクターであった。しかし、もはやそれを絶対的に必要としなくなる。
それではヒトから知能を取り除いた後に残るもの、それはなんなのだろうか?
それは、「優しさ」であり、「嬉しさや悲しみを共有する」ことであり、「怒りであり笑い」なのだ。「美しいものを美しい」と感じる『こころ』やヒトと同調できる『絆』なのである。
わたしはこれらを合わせて『愛』であると言いたい。
最終回2につづく
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