画家の心 美の追求 第85回「ジャン・フレデリック・バジール 自画像 1865―66年」
このひと、ジャン・フレデリック・バジールと言うが、わたしにはまったく見知らぬ画家だ。まことに勝手な想像だが、この人物を知る人は少ないだろうと思う。
しかしこの人が、印象派成立にかかわるキーマンのひとりだというのである。
キーマンなのになぜ知られていないのだろうか。その謎と彼の功績を追ってみたいと思う。
バジールは南仏モンペリエの裕福な家庭に生まれ、1862年(21歳頃)、医学の勉強をすると言ってパリに出るが、シャルル・グレールの画塾で絵画を習いはじめる。そこで後の印象派の巨星となるモネ、ルノワール、シスレー、ピサロ、セザンヌと知り合う。
バジールはモネのことを「画家の卵の中で一番の友達」と親への手紙で伝えている。
さらにバジールは従兄弟をとおしてセザンヌを紹介され、セザンヌからはアカデミー・シュイで勉強しているピサロやギヨマンらを知ることになる。
1864年5月、ノルマンディーのオンフールでブータンとヨンキールに出会い、このときのことを両親への手紙で、「モンフールで風景画を描いています。・・・ますます医学の勉強が嫌になりました」、と自分の今の心境を両親に克明に伝えている。
医学の勉強をすると言うのでパリに行かせたのに、絵ばかり描いてと、この親たちは腹を立てなかったのだろうか。しかしこの親たちはその後も多くの仕送りをすることになる。
バジールはサロンに通う画家や、サロンを嫌う貧乏な画家仲間からも愛されるようになる。これは裕福な家庭で育った育ちの良さからくるものなのだろう。
1864年末バジールとモネは両親の家でラトゥール、ボードレール、ドールヴィイ、ナダール、ガンベッタ、マッセ、エドモン・メートル(音楽家、美術収集家)らと出会う。中でもメートルとは親友になった。バジールはリヒャルト・ワーグナーのファンで、その点でもメートルと意気投合した。
このようにバジールの人脈は後の印象派からサロンの画家、そして音楽界や文学界まで幅広く広がっていき、この仲間たちからも大きな信頼を得ていた。
1866年になり小さな事件が起きる。バジールはサロンに「ピアノを弾く少女」と「魚の静物」の2点を出品する。サロン風に描いた「魚の静物」は予想通り入選したが、本人が気に入っていた「ピアノを弾く少女」は落選した。
それで落選した他の仲間たちの作品と共に落選展をしたいと両親に手紙を書いている。
1867年のサロンの審査が前年より増して厳しくなると多くの作品が落選した。入選作はつまらないものばかりだとバジールは例によって両親に愚痴っている。そこで落選展を開こうと2500フランを集めたが、費用が不足したため断念する。これが、後の印象派展(1874年)につながる大きな切っ掛けとなる。
1868年にバジールはルノワールらとともにバティニョール地区に広いアトリエを借り移り住む。ここには多くの若手画家たちが集まるようになり、この仲間たちを「バティニョール派」と呼ばれるようになる。
1869年サロンに落選すると、両親に告げている。
「落胆しないでください。他の優秀な作品と同じなのですから。・・・落選した作品をアトリエに飾ることにしました」
そして運命の年がやって来る。1870年7月19日フランス帝国とプロイセン王国(後のドイツ帝国)との間で普仏戦争が勃発する。名家の出身であり、正義感の強いバジールは8月10日志願し、ズアーブ兵連隊(最強勇猛軍団)に入り、11月28日オルレアン近郊のボーヌ=ラ=ロランドの戦いで亡くなる。
父親は戦死の知らせを聞くと危険を冒し戦地に赴き、銃弾2発を受けた息子の遺体を引き取り帰郷した。バジールと父親、そして故郷で待つ母親との絆はとても強いものであったに違いない。
バジールが仲間に語っていたサロンから独立してグループ展を開く。それは普仏戦争が終わり、疎開していた仲間たちがパリに戻った1874年、モネ、ルノワール、ピサロ、ドガなどのバシニョール派のメンバーが中心となるグループ展、「画家、彫刻家、版画家、などによる共同出資会社の第1回展」として実施されする。後に印象派展と呼ばれるようになるのはご承知のとおりである。
バシニョール派のメンバーは、バジールから受けた経済的援助を含め、バジールの夢、そして自分たちの夢をようやく実現させたのだ。
しかし、このメンバーにはバジールはいない。要のいなくなった組織は少しづつ軋みが生じ始め、1886年第8回印象派展を最後にこの会は解散される。
このわずか20年ばかりの間にパリの芸術、すなわち世界の芸術はさらに勢いを増しつつ激流の変革をなしていく。
そんな時代の切っ掛けを作ったわずかな時間であったが、ジャン・フレデリック・バジールはその存在価値をしっかりと示した。
彼の功績、そして彼の人柄に賞賛を送りたい。