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ファロスの見える家 子犬のワルツ

【これまでの経緯】
 女流画家はもう少し絵を描かせてほしい壮介にお願いし、壮介は「雨上がり」を作り供した。


壮介はこの空き家を見つけた日、その足で駅前の小さな不動産屋を訪ねた。店主はあの家を買おうとする壮介を、老眼鏡をずらしながらじろりと見上げた。とりあえず物件を見ることになり、もと来た道を戻る。不動産屋の店主が、軽自動車を運転しながら言った。


「あの家はバブルが弾け、ひと段落した二〇〇八年ごろに建築されたもので、元の持ち主はペンションか、小さなコンドミニアムをやろうと考えていたようです。ところが景気が悪くなり、こんな田舎町で通いのコックをやるようなひとも見つからず、それでも諦めないで何年も辛抱強くそのチャンスを待っていたそうですが、本人が病気になり手放すことになったと聞いています。死の間際のベッドの中で、この土地を切り売りしないで、私の思いを引き継いでくれるひとに売ってほしいと、言われたそうです。後を引き継いだ不動産屋はこのままでは売れない、だからいつかは自分がオーナーになり、コンドミニアムの主になりたいと頑張っていたそうです。それでも結局、その不動産屋は手放すことになり、その後も不動産屋から不動産屋に転売され、今は自分が所有しています」


「ということは、あなたもコンドミニアムのオーナーを夢見ていたのですか」
 不動産屋は苦笑いを浮かべるだけで、壮介の問いには答えなかった。しばらくして物件の前に着くと、車から降りて売り家の説明を始めた。
「玄関前には左右に二台ずつの駐車スペースがあります。右の奥にはサブの駐車場があり、最大で五台が停められます」


 駐車スペースは生垣で区切られている。不動産屋はそれを左右に見ながら生垣に囲まれた真ん中の踏み石を進み、玄関へと案内した。観音開きのドアのカギを開け、玄関アプローチに入る。目の前は広々としたフロアになっており、そのまままっすぐ進むと大きなガラスの入った掃き出し窓がある。キラキラと輝く午後の陽光が室内を明るく照らし出している。玄関から左に回ると二階へつながる階段がゆるく右に旋回しながら階上へと続いている。階段は分厚い集成材のステップで一歩踏むごとに安心感と寛ぎを与えてくれる。玄関は天井までの吹き抜けになっており、天井から華美でも質素でもない、気品のあるペンダントタイプの橙色のシャンデリアが吊り下げられ、お洒落(しゃれ)で心を和(なご)ませてくれる。


 玄関からまっすぐに進むとオーク材のシックなカウンターになっており、コンドミニアムの受付になるはずだったのだろう。カウンターはL(エル)字型に折れ曲がり、そのまま奥までつながりバーカウンターになっている。カウンターの前には足長のスツールが三脚並べられている。カウンターの後ろ、裏側はキッチンになっていた。
「お客さん、ここを見てください」


不動産屋の親父は壮介をキッチンに誘った。そこはとても広いスペースになっており、調理器具類はオールステンレス製で、銅製のものも壁に掛けられている。今すぐにでも使えそうなくらいピカピカと光り輝いている。
「冷蔵庫は大型のダブルドア。ビルトインタイプの食洗器。食器棚には色とりどりの形と彩色された陶器から磁器、ガラスの器までそろっています。いますぐにでも使っていただけますよ」
 不動産屋の親父はさも自分が苦労して取りそろえたように自慢げに話す。
 そして、引き出しにはフォークやスプーンなどのカトラリーのすべてがきちんと整理され並べられていた。


「確かに、これはすごいですね。僕は食器のことはよくわかりませんが、素晴らしいものだろうな、ということぐらいはわかります」
 キッチンを出て、廊下を挟んでオーナー室がある。この家を購入したら自分の部屋になる。マホガニーの重厚な扉を開けると、十八畳はあるだろうか、広い室内にセミダブルのベッド、ウォルナットの机とリクライニングチェア。右手にトイレとシャワールーム。左手に洗面化粧台がビルトインされている。その先にクローゼットがふたつ。この部屋の構造からすると最初の持ち主はひとりでここに住む予定だったようだ。独り者の壮介にとっては好都合というものだ。


「庭に出てみましょう」
不動産屋は言った。フロアに戻り、掃き出し窓から庭に出る。庭は思った以上に開放感があり、空が広く感じる。南海子を亡くし、鬱々(うつうつ)としていた気分が一気に晴れるようだ。
「庭の先まで行ってみましょう」
 青い空と碧い海。その先に水平線が見渡せる。海の風が頬を撫でていく。そして、右手の山際から灯台の灯光部と胴部が見える。これはひとりできたときに確認済みだ。


「そのまま後ろを振り返ってください」
 不動産屋の親父は何気なしに言った。
言われるがまま振り返ると、思わず目を見張った。白亜のモダニズム建築の建物が想像以上に大きく迫ってくる。堂々とした落ち着きと迫力だ。
――ますます気に入った。君もそうだろう南海子。
 壮介は即決で購入を決めた。


そして、不動産屋の親父から、
「ここで何をされるのか存じませんが、将来手放すことになったら、決して土地の切り売りをなさらないでください。これは最初のオーナーからの伝言なので、お伝えしておかなければなりません」
 親父はこの物件に思い入れがあるようだった。壮介は受け継いでこられた人たちの想いを無にしてはいけないと心を新たにした。

 それから絵を描く女との生活にも慣れ何日かが過ぎ、午後になり店を開けしばらくした時だった。ドアベルがチリリンと鳴った。真っ白なティーシャツにインジゴブルーのデニムパンツを履いたショートカットヘアの若い女が、茶色の子犬を胸に抱きかかえ入ってきた。ふっくらした白い頬に右目の下に小さな泣き黒子(ぼくろ)が印象的な女性だった。
「いらっしゃい」


 対応したのはカウンターの奥のスツールに座り、コーヒーを啜っていた女画家だった。画家はスツールから立ち上がると入って来た客に近づき、
「まあ、かわいいワンちゃんね。お名前は」
 子犬の頭をなでながら問いかける。
「あたしの犬じゃないんです。このお店のワンちゃんじゃないのですか」
「ここでは犬は飼ってないわよ」
 画家は子犬の頭を撫で続けている。
「でも、ドアの前でうずくまっていたので、てっきりこのお店の子犬かと思って抱いてきちゃいました」
 若い女は子犬を抱いたまま、これからどうしようかと、少し困った顔をした。


 画家は客のことなどお構いなしに子犬の頭を撫でまわしている。そして、撫でる手を止めると、
「こんなにかわいいワンちゃんなんだから、あなたが飼ってあげなさいよ」
「ええっ、あたしは無理です」
若い女は激しく顔を左右に振る。
「それじゃあ、ここで飼ってあげましょうよ」
画家は壮介の方に顔を向けるとなんのためらいもなく提案した。
「ありがとうございます、そうしていただけると。こちらの奥さまですか」
「いいえ、違います」
壮介は強く否定する。


「こちらはお客さんで、画家さんです。僕の妻は……」
亡くなりました、と口にしようとしたが、見ず知らずのお客にあれこれ話すのもためらわれた。
画家はカウンター横に置かれた、にこやかに笑う女性の写真に目をやった。
「子犬だしな、このまま外に放っておくのも可哀そうだ。どうしようか、飼い犬でもなさそうだし」
 壮介は僕だけでは面倒見きれないと迷っていると、
「大丈夫よ。子犬の一匹くらいなんとでもなるわよ」


 画家はそう言うと、子犬ににっこりと微笑みかけ頭を撫でた。
「おチビちゃんはここで飼ってあげるからね。嬉しいでしょう。さあ、君の名前は何がいいのかなぁ」
「あのー、名前なら決まっています」
 若い女が言った。
「あら、そうなの。なんて名なの」
「この犬を見たときピンときたんです。あいのすけ。愛之助です」
これしかありません、と若い女は断言した。
「あいのすけ、ねぇ。歌舞伎役者みたいな名前ね」
 画家は何度もあいのすけ、あいのすけと口ずさんでいたが、
「愛之助! いいんじゃない。愛之助、賛成よ」


「ありがとうございます。あのー……」
「あたしは、渚沙(なぎさ)。あなたはなんておっしゃるの」
「美咲(みさき)です。美しく咲くと書きます」
「まあ、美咲さん。可愛らしいお名前ね。それでこちらが……」
 渚沙はカウンターの男を指さした。
「店主の壮介です。よろしく」


 壮介は女画家の名前が渚沙だと初めて知った。画家だけじゃない、突然現れた若い女が美咲ちゃんで、子犬の名前は愛之助だそうだ。今まで何もわからなかったのに……。三年もの間、誰ともほとんど口も利かず静かにひとりで生活していた。ところが一夜明けると、ふたりと一匹が目の前にいる。
――これはいったい何が起きているのだろうか。
戸惑っている自分がいた。

 美咲は愛之助を抱きかかえ、
「この子、プルプル震えてて、きっとお腹がすいているんだと思います。何か食べさせてあげたいのだけど」
「あら、あら、かわいそうに、何か探してきましょうね」
 渚沙は愛之助から離れるとカウンター裏のキッチンにずんずん入って行き、両開き式の冷蔵庫から牛乳を取り出すとスープ皿に半分ほど入れる。隣のパン棚からバゲットの端っこを両手で力いっぱいちぎると、さらに細かくちぎり、スープ皿の牛乳の上にポンポンと浮かべた。


渚沙は牛乳皿を持ってキッチンからフロアに戻って来た。
「待ってください」
壮介は顔をしかめた。
「どうしてよ。牛乳ぐらいいいじゃない。愛之助にあげるのだから」
「そのままじゃあ、震えている子犬には冷たすぎますよ。少し温めましょう」
レンジで温めた牛乳皿を美咲の足元に置く。それを愛之助は小さな鼻でクンクン匂いをかぎ、これは美味そうだと思ったのか、首を突っ込むとがつがつと食べはじめた。
「よっぽどお腹がすいていたのね」
美咲は、よかったね、と呟くと、愛之助の傍にしゃがみ込み、食べる様子をじっと見ていた。


愛之助は最後の一滴(ひとしずく)まで小さな舌で舐め終えると満足気に前足を伸ばし、大きなあくびをした。
「お腹がいっぱいになり、眠たくなったのね」
つい先ほどここに連れてこられたときは小さく震えていたのに、今は美咲に抱かれ目を細めとろんとしている。壮介は、子犬だってお腹がいっぱいになると幸せな気持ちになるんだなあと、ほほえましく見ていた。


それにしても渚沙と名乗る女画家が、勝手にキッチンに入っていき、牛乳やパンを取り出してきたことには正直驚いた。それを咎(とが)めようかとも思ったが、子犬を見つめるふたりの女性の優しい眼差しを見ていると、そんな気持ちはどこかへ吹き飛んだ。僕のスイーツではこうはいかない。子犬のかわいらしさに勝るものはない。
 壮介は、これはこれでいいのかもしれない、と思い直した。


「ここはスイーツのお店ですよね」
 美咲は愛之助を抱きながら壮介に改まった口調で訊いた。
「ええ、そうよ。でもね、ここは注文を受けてから作るから、なかなか出てこないし、それも一種類しかないわよ。それでいいなら」
渚沙はありのままをあっけらかんと暴露する。しかし、これも事実だから反論の余地もない。


それにしても渚沙さんは美咲ちゃんと愛之助を真ん中に仲良くおしゃべりをしている。この店にやってきて以来これほど饒舌(じょうぜつ)に話すことはなかったのに美咲ちゃんと愛之助が現れた途端、話好きな女に変身していた。本来の渚沙さんとは、こういうどこにでもいる、世話好きでおしゃべりな女性なのかもしれない。


「壮さん、今日のスイーツは何かしら。壮さんが作るスイーツは美味しいわよ。それは、あたしが保証するわ」
「えっ、はい。ありがとうございます。美咲さんには、そうですね」
 そう言いながらキッチンに向かった。そして、
 ――南海子。あのお客さんになにを作ればいい。
(美咲ちゃんって言ったかな。かわいいお嬢さんね。パンナコッタとクリームチーズのスコーンのセットなんてどうかしら)


 壮介は赤ワイン用のブルゴーニュワイングラスにココア風味で、淡香色(うすこういろ)のパンナコッタを流し入れ、冷蔵庫で固める。そして、パンナコッタの上に真っ白なホイップクリームをのせ、赤ワインに漬けた真っ赤なチェリーとペパーミントリーフを静かに添える。できたパンナコッタは『子犬のワルツ』と名付けた。


 美咲は『子犬のワルツ』を銀のスプーンで掬い取り、口にそっと運んだ。
 蕩(とろ)けるような滑らかな口当たり、かすかなペパーミントの香りが爽やかだ。優しいミルクの味とともにココアの風味が舌の上で舞い踊る。
 美咲は銀のスプーンでふた口目をすくおうとしたとき、目の前の景色が急にぼやけてきた。瞼に涙が溜まっている。そして、ふた口目を口に運んだ時、瞼に溜まった涙が黒子を濡らしポロリとこぼれた。ひとつこぼれ落ちると次から次へとあふれ出た。


渚沙はそんな美咲の背中を優しくなでる。美咲はゆっくりとスプーンを口に運んだ。
「すいません、泣いたりして。こんなに美味しいのに。あたし、変ですよね」
「何も言わなくていいのよ。美咲ちゃんの気持ちはよくわかるから」
 美咲はうんとうなずくと、赤いチェリーを口に入れた。赤ワインの香りとチェリーの甘酸っぱさが口の中でワルツを奏でた。

 『子犬のワルツ』
  君は迷い子なの
  お母さんはどこにいるの
  ここに居れば暖かい
  あたしが君を守ってあげる
  きっと、だよ
             宇美

                              つづく
【女神の涙】予告
 壮介は、クリームチーズにドライイチジクを混ぜ込んだ生地をスコーンに焼き上げ、『女神の涙』と名付けた。そして、イチジクにまつわる恋の話を話した。

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