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ファロスの見える家          誕生と永遠

【これまでの経緯】
 激しく意見を交わしていた安雄と渚沙の前に壮介は、「夢見たもの」と命名したコリッタチーズのパンケーキを供した。すると二人の心は和やかにやすんでいく。


 たっぷりと湿度を含んだ生暖かい風が海から吹き寄せて来る。
 壮介は重たい瞼をこすりながらベッドから立ち上がると、オーナー室の窓から灰色の空を恨めしく眺めた。雨にならなければいいのだが。フロアに出てくると渚沙がカウンターにひとり物憂げに座っていた。
「おはよう。何か作りますね」
壮介はキッチンに入りコーヒーをセットし、ココアのフレンチトーストを作り始めた。
「ところで美咲ちゃんはどうしたんでしょうね。まだ起きてこないのでしょうか」
「美咲ちゃんなら朝早くに出て行ったわよ」
 コーヒーの馥郁(ふくいく)たる香りが鼻腔に届くと、体にやっと精気が戻ってくる。壮介はココアのフレンチトーストをのせたプレートを両手に持ってキッチンから出てきた。そのひとつを渚沙の前に置いた。


「美咲ちゃんは愛之助を残して、こんなに朝早くからどこへ出かけたのでしょうね」
 愛之助は渚沙の足元に置いたミルクを舐めているが、気が抜けたように元気がない。
「さあねぇ。あたしも知らないわ。そんなに気になるの」
「そりゃあ気になるでしょう。食事を作るぼくとしては」
「あら、それだけ。まあ、そういうことにしておきましょう。でも美咲ちゃん、どこへ行ったんだろうね」
渚沙はしゃがみ込み、寂しいねぇ、と愛之助の頭を撫でた。

空の灰色は徐々に濃くなり、重たげな雲が広がっている。このままいけば雨になるかもしれない。
渚沙はいつものようにキャンバスとイーゼルを抱え庭に出て絵を描いているが、重たげな雲のせいなのか、今日は筆が進まない。キャンバスを前にしてすでに一時間以上立ち尽くしている。鈍色(にびいろ)の海に白い波頭、右手には灯台の灯光部が見えるこの場所だが、渚沙は海も空も灯台も何も見ていない。いや、目に入らないのだ。真っ白な画面に青と赤と黄色の絵の具が無造作にべっとりと塗りつけられているだけだった。

これまでの渚沙は、ドラクロワの『ダンテの小舟』のような、深くて黒い闇と眩しい光を放つ陰影の絵を描くこともできたし、モネの『日の出』のような淡いパステルカラーの絵も、ゴシックやバロックの絵でも、印象派の絵も、キュビズムでも、シュルレアリズムでも、ポップ調の絵もグラフィックも描くことができた。渚沙の技量は学生時代にはすべての分野で頂点に達し、『UMI(ユミ)』という雅号で名を知られるようになっていた。
ところが、渚沙は技術が上がれば上がるほど自分は何を描けばいいのか、何を描きたいのかわからなくなっていた。画壇の重鎮や画商からは有名画家の猿真似だ、これは単なる名画の複製にすぎん、君自身のオリジナリティーがない、絵から訴えてくるものが何もない、などと思いもよらない皮肉や酷評を受けた。


渚沙は世間の誹謗中傷に耐えられなくなり、UMIの名前を伏せ、あてのない旅に出たのだ。最初の旅先で山や畑ののどかな田園風景を描いたが、完成間近になるにつれて不安にとらわれた。ひょっとして、これってあの画家の絵に似ているかも、と懐疑的になってしまう。そんなつもりはまったくないのに、これが自分の絵だという自信が持てない。すると自分で自分をどんどん追い込んでいく。もがけばもがくほど息苦しく、まるでアリ地獄の底に落ちていくようだった。
「こんなもの!」
渚沙は疑心暗鬼に耐えられなくなりキャンバスに太い筆で大きなバツ印を殴りつけた。


そんな思いを断ち切るために、自分にしか描けない世界を表現しようと都会に戻った。夜の煌めく大都会。そこには一日の仕事を終えた人々の喜びと楽しみ、その裏に潜む悲しみがあるはず。その力強く生きる人びとの営みと息遣いを描こう。キラキラと光り輝く酒場の場面。酒を求めて集まる男と女、酔客たちの笑顔がある、泣き顔がある。渚沙は都会のめくるめく喧騒を表現しようとキャンバスに向かったが、ハッと気づくといつの間にかキャンバス全体を黒い絵の具で塗りつぶされていた。行きかう人びとのジロジロと見る好奇の目が気になり、自分の存在を否定されたように感じた。怖い、恐ろしい。体が震えだし、渚沙はその場から逃げるようにして電車に飛び乗った。そこまでは記憶があるのだが、気が付けば冷たい雨に降られ、この店の前に立っていた。

午後になり渚沙はカウンターで壮介が淹れてくれた暖かいコーヒーを啜っていると、灰色の雲からとうとう霧雨のような雨が降り始めた。
 窓際で尻尾を丸めうずくまっていた愛之助も恨めしそうに庭の雨を眺めている。美咲がいれば庭で駆け回り、遊んでいる時間だ。でも今日は美咲がいない。
「あーあ、降って来た……」
 渚沙はため息まじりに独り言のように呟いた。
 愛之助は庭に置きざりになっているキャンバスが気になるようで、立ち上がると渚沙の脚を噛んだ。ところが渚沙はコーヒーを啜り続けている。ゆっくりと時間は流れ、渚沙は冷めたコーヒーを飲み干すと、ようやく重い腰をあげ、傘もささずに庭に出て行った。


そんな時、チリリンとドアベルがなり、ボブヘアの髪にしっとりと雨水を含ませた青白い顔をした女性が飛び込んできた。薄いグレーのジャケットを羽織り、濃紺だろうか黒っぽいトートバッグを肩から掛けている。年齢は四十過ぎの専業主婦といった感じだ。
「いらっしゃいませ」
 キッチンから出てきた壮介が応じた。
「急に降ってきて困っちゃいました。しばらく雨宿りさせてください」
 ボブヘアの客は真ん中のスツールに腰をかけ、濡れたバッグを隣のスツールに載せた。


「濡れちゃいましたね。今、タオルをお待ちします」
「壮さん、あたしもお願い」
 雨に濡れたキャンバスを傘の代わりに頭の上にかかげ、渚沙が庭から戻ってきた。
 壮介はバスタオルを女性客と渚沙に手渡すと、すぐにキッチンに籠(こも)った。
「あら、絵を描いていらっしゃるの。素敵ね。拝見してもいいかしら」
 女は屈託なく渚沙に話しかける。
 渚沙は一瞬逡巡したが、濡れたキャンバスを女の方にゆっくりと向けた。キャンバスには青と赤と黄色の絵の具が塗られていたが雨に打たれ、無残なものに変わり果てていた。


「あらあら、雨に濡れてせっかくの絵が台無し」
 女の客は気の毒そうに渚沙を見た。
絵は訳の分からない抽象画のようになっていた。しかし、渚沙はこの絵を食い入るように見入っている。
女性客はそんな渚沙の様子を気の毒に思ったのか、
「もともとは何が描かれていたのですか」
 渚沙は女の質問に、ふっと我に返った。
「ああ、これは……、そうね、『灯台の見える丘』」
 渚沙は咄嗟に思い付いた画題を告げた。そして、しばらく自分の絵を厳しい目つきで睨んでいたが、すっと絵筆を取り上げると、画面に向かって大きく振り下ろした。さらにもう一度。画面いっぱいに大きな赤のバツ印がくっきりとしるされた。


「あっ!」
女の客は悲鳴のような声を上げ、口を手で覆った。
 悲鳴を聞きつけ、壮介はキッチンから飛び出してきた。
「どうかしましたか、お客様。だいじょう……」
壮介はカウンターに無造作に置かれた渚沙の絵に気が付いた。
「こっ、これは……」
渚沙は詰めていた息を、はーっと大きく吐き出すと、振り上げていた絵筆を絵具箱に戻した。そして、厳しい顔つきから力みが抜け、ほっとした表情になった。
「そう、これでよくなったわ」
「わたしが余計なこと言ったばかりに、とんでもないことに……。どうお詫びをすればいいのか」
「いいのよ。あなたのせいじゃないわ。この絵はこれでよかったの。せいせいした。だから、ほんと、あなたのせいじゃないから。気にしないで」
「そうなんですか、それならいいんだけど……」
 それでもボブヘアの女は心配そうに、渚沙と変わり果てた絵をかわるがわる見ていた。


 壮介はキッチンに戻ると、今朝帆吏さんから届いた朝もぎのプリッと膨らんだイチジクを輪切りにし、大ぶりの丸いグラスボウルに浮かべたパンナコッタをふたりの女の前に置いた。
 大輪の花が開いたような大きなイチジクの果肉がグラス一杯に広がっている。女の客はスプーンで切り分け、口に運ぶ。たちまちイチジクの優しい甘みと、パンナコッタの滑らかな舌触りとともに仄(ほの)かなレモンの酸味が口の中で絡み合う。
「美味しい。イチジクをこんな風にしていただくのって初めて。これは何というスイーツですか」


 女の客は興味津々(きょうみしんしん)に目を輝かせた。
「これは『誕生と永遠』といいます」
「誕生と永遠? 面白いというか変わったお名前ね」
「イチジクは古代から珍重され、不老長寿をもたらす果物と信じられています」
「そうなんですか。不老長寿ですか、長生きもしたいけど、あたしの声、よくならないかしら」
 女の客はそのようなことをふと漏らすと微苦笑した。
「喉にいいものなら、梨とか柿とか、キンカン、アンズ、それにイチゴなどの果物があります。ビタミンやミネラルをたくさん含むので好まれると何かで読んだような。でも、声をよくするには発声練習が一番じゃないですか」
「やはりそうですよね」
 女性客は納得したのかしばらく考え込んでいたが、ぽつりぽつりと話し始めた。


「あたし、子供がふたりいるのだけど、ふたりともそれぞれに進路が決まり、子育てもひと段落したので何か新しいことにチャレンジしようと思っているところに、たまたま公民館でママさんコーラス募集のポスターを見つけたんです。それで思い切って練習に参加したんだけど、でも……、声が出なくて」
「声が出ないって、お話はできていますよね。それもいいお声だと思いますけど。それって、歌うときだけ、声が出ないということですか」
 壮介は首をひねった。
「ええ、家で練習をしているときは大丈夫なんです。でも、みなさんと一緒に歌おうとすると声が出ないんです。特にせんせーの前では緊張して、まったく……。変だなって、どうしてだろうと思って考えていたら思い出したんです。小学生のときの音楽発表会を」
「小学校の音楽発表会ですか」


「ええ、そうなんです。練習のとき、担任の女の先生からあなたは歌わなくていいから、みんなに合わせて口パクしてなさいって怖い顔して言われたんです。ちょうどそのとき風邪をひいていて、ガラガラ声になっていただけなのに。それからは歌おうとすると胸が苦しくなって、あのときの悪魔のような先生の顔が浮かんできて、両手で喉をこうやってギュッと締め付けられるような。それで音楽の発表会は嫌な思い出しかありません」
「それって、小学生のときなんですよね」
「そうなんです。もう何十年も経っているのに。あたしもびっくりしちゃって。ずっと忘れていたのに。普段、家で鼻歌だったら歌えるんですよ」
「ひょっとして、子供のころの記憶がトラウマになっているってことですかね」


「そうかもしれません」
「それはお気の毒ですね。ねえ、渚沙さん」
 壮介は渚沙に同意を求めた。
「そうね」
素っ気ない返事をした渚沙は、足元でじゃれ始めた愛之助を抱き上げ、膝の上で背中を撫でた。愛之助はいまだにクンともスンとも声を出さない。
「あたし、本当は子供のときから歌うことが大好きなんです。それで一大決心をして、年末にある第九の合唱会に参加することにしたのに、声が出なくて、だから今日の練習のときもずっと歌っている振りをしていたの。そしたら隣で練習していたひとも、変な顔をしていた。これじゃあ、あたし……」
 淡々と話をしていたが、最後は涙声になっていた。


 渚沙は愛之助を抱いたまま女の客に近づきそっと背中をなでた。
「辛いよね。わかるわよ、あなたの気持ち」
「ありがとう。あたし、思いっきり声を出して歌いたいのに……。大勢いるから、あたしひとりぐらい口パクしていても、迷惑をかけないと思うけど……」
「それであなたは満足なの」
 渚沙は愛之助の顔を覗き見ると、愛之助はいやいやするように首を左右に振った。


「ねぇ、あなた、お名前は何ておっしゃるの。あたしは渚沙」
 女はいきなり名前を尋ねられびっくりした。
「あ、あたし……。ひろ子、平仮名でひろ子って書くの」
「ひろ子さんね。こちらは壮介さん。この子は、愛之助って言うの」
「よろしく、愛之助くん」
ひろ子は子犬の頭を撫でた。
「愛之助はね、声が出ないの。鳴かないのよ」
 ええっ、そんな。と言ったきりひろ子は呆然としている。
――犬が鳴かないなんて。このひと、あたしをからかっているのかしら。
「犬だって辛いことがあれば、声が出なくなる。そういうこともあるのよ。愛之助に何があったのかはわからないけど、きっと何か悲しい出来事があったんだ。でも、大丈夫よ。きっと取り戻せる日が来るからね」
 渚沙は愛之助を顔近くまで抱き上げると、何度も頬ずりをした。

   『誕生と永遠』
  イチジクは神さまからの賜りもの
  永遠の命と美の妙薬
  ほのかな香りと優しい甘さ
  母の胎内にいるようで
  心地よい
               宇美
                          つづく
【美声玉】予告
 声が出ないと嘆くひろ子に壮介は謎のスイーツを作る。そして、久しぶりに加奈が尋ねてきたが、精気が感じられない。

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