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ファロスの見える家 慕われる愛

【これまでの経緯】
 壮介は渚沙と美咲に『女神の涙』を作ったいきさつを嬉々と話した。しかし、美咲は店から帰ろうとしなかった。そして…、


 美咲と愛之助がここの住人になって一週間が過ぎた。この間、美咲はかいがいしく愛之助の面倒を見ていたが、愛之助の声が戻ることはなかった。
美咲は毎日どこかへ出かけているようで、それは朝早くだったり、午後になって出かけていき、夜遅くになって帰って来ることもあった。一日だけだったが、帰ってこない日があった。その日の壮介は真夜中になっても店を開け、美咲の帰りを待っていた。店から出ては遠くにぼんやり灯る街灯の先を眺め、店に戻ってもソワソワと落ち着かない夜を過ごした。


美咲は次の日の昼前になって、ただいまぁ、と何事もなかったかのように帰って来た。愛之助は美咲の帰りがわかるのか、ドアが開く前からしっぽを激しく振り、ドアが開くと美咲の膝に背伸びをするように飛び付いた。美咲はしゃがみながら愛之助を抱きしめると、何度も何度も頬ずりをした。美咲と愛之助は強い絆で結ばれているようだった。
愛之助がこの店に現れた時は弱々しく、動きもぎこちなかったが、今では子犬らしくぴょんぴょん跳ねるように走り回っている。


壮介はスイーツを作る手を止めた。庭では美咲と愛之助がじゃれ回り、その先で渚沙が絵を描いている。この三人と子犬の奇妙な生活は、南海子を亡くしてからひとり虚無の世界で生きていた壮介に、不思議な安らぎをもたらしていた。壮介の日常生活に活気が戻り、心配したり喜んだり、ひとらしい感情を取り戻しつつあった。

壮介と南海子はふたりとも晩婚といわれる年で結婚して、穏やかで静かな日々を送っていた。結婚をして五年が過ぎ、子供に恵まれることはなかったが特に気にすることもなかった。
そんなある日、南海子に異変が起きた。乳房に小さなしこりがあるというのだ。まさかと思ったが、精密検査を受けた結果、乳ガンだと判明した。ステージⅡの初期で、ガンを切除し、放射線治療をすれば治癒するだろうとの診断で、手術を無事に終えた。術後の経過も問題なく順調だった。


良かった、と南海子とふたりでガン克服の祝杯をあげた。それから一年が過ぎたころ、南海子が変な咳、コンコンと空咳をするようになった。単なる風邪だろうと思っていたが、念のために病院で診てもらうと、血液検査を進められた。さらに一週間後精密検査を受けた結果、肺ガンだと診断された。その後は頭が真っ白になり、どう言われ、どう答えたのか覚えていない。
きちんと定期検査をしていたはずなのに、どうしてこんなことになったのかわからない。藪(やぶ)医者! と喚(わめ)き散らしたかった。しかし、そんなことをしても結果が変わるはずもなく、ただただ悔し涙を流すばかりだった。


翌日には慌ただしく二度目の入院。片肺を切除したが、ガン細胞は容赦なく南海子の全身に転移しており、「もうこれ以上は……、患者さんの体を傷つけるだけで、残念です」。医者のお定まりの台詞(せりふ)がむなしく聞いていた。
余命三か月、長くて半年。しかし……、いつ急変してもおかしくない状態だということも忘れないでください。こちらも全力を尽くしますので……。
それが医者からの最後通牒だった。
――バカにしやがって、全力を尽くすだと、今まで何やっていたんだ、俺たちをなんだと思っているんだ! クソ、クソ、クソォー!
憤(いきどお)りしかなかった。悔しいやるせない気持ちで胸が張り裂けそうだった。

チリリンとドアベルが鳴り、壮介は現実世界に引き戻された。
「いらっしゃいませ」
 薄いピンクのパーカーを羽織ったショートヘアの女性客。年は三十を少し回ったぐらいだろうか、目の下に黒いクマができ、頬はこけ、何日も徹夜をしたような、そんなやつれ切った様子だった。


 女は重い体を引きずるようにフロアに入ると、目の前のスツールに倒れこむようにして腰を下ろした。座るなり、はぁ~っと全身の力が抜けるような大きな息を吐いた。
 壮介は気遣いながら静かに声をかけた。
「いま、温かい飲み物をお出ししますね」
 女は壮介の声が聞こえていないのか虚空を眺め、ぼんやりうつろな眼をしている。


 壮介はぬるめに淹(い)れたほうじ茶ラテを女の前にそっと差し出した。女ははっとして壮介を見た。
「あ、ありがとうございます」
出されたカップを両手で抱えるようにして持つと、ゆっくりと口に運んだ。薄茶色の液体をひと口含むと、閉じかけていたふたつの瞳がゆっくりと開いていく。そして、うっ、と声が漏れ出た。
「お、い、しぃ……」
 絞り出すように声を出すと、ほうじ茶ラテの半分を飲んだ。
「ゆっくりなさってください。次はスイーツをお出ししますね」
 壮介はそう言い残すと、キッチンに消えた。


 ――南海子、あのひとどうしたんだろうね。何がいいかな。
(わからないけど、とても悲しそう。体に良くて、元気が出るものがいいんじゃない。ジンジャーケーキってどうかな)
渚沙は庭で絵を描いていたが、客が来たことに気が付いたのか、掃き出し窓からフロアに戻ってきた。今や渚沙の定位置となっているカウンター奥の、女の客とは一つ離れたスツールに腰をかけた。花の絵柄のマイカップを両手で抱えるようにしてほうじ茶ラテを啜ると、独り言のように話しかけた。


「あたしね、元もとはコーヒー党だったのよ。砂糖もいや、ミルクは嫌いで飲めなかったんだけど、壮さん、さっきのひと、ここのマスターなんだけど、壮さんの作るラテ茶を飲むと、何故だか心が落ち着くのよね。だからこのお茶が大好きになったわ」
「ええ、ほんとうに……」
 女も満足したようで、すでに空になったカップの底を眺めていた。
「この庭の先にね、海と灯台が見える場所があるの。そこで絵を描いているだけなんだけど、結構疲れるのよね。そんなときに壮さんの淹れてくれるお茶を飲むと、はーっと一息ついて、さあ、もうひと頑張りするぞって気になるのよ」
「そうなんですか」
 渚沙はゆっくり首を左に巡らし、女と顔を合わせた。


「こんなこと聞いてもいいかな。何か嫌なことでもあったの」
 女は渚沙から顔を背け、カップの底を睨みむと唇をぎゅっと噛んだ。しばらくして女の両肩がガクンと落ちた。
「娘の芽依(めい)が、病気なの……。あと半年……、長くて一年だって。せんせーが……」
「一年って、えっ! まさか……」
渚沙は悲鳴のような声を上げた。まったく予期していない言葉だった。余計なことを聞いてしまったと後悔した。このあと、なんと言って慰めればいいのかわからない。


 壮介はキッチンでスイーツを作っていたが、渚沙の悲鳴のような声を聞きつけ、泡だて器を片手にカウンターに戻ってきた。
「お話が聞こえてしまって……」
「子供さんはいくつなの」
 女はその問いに答えることなく、眉間に深い皺を作り、うつむき黙っている。
 ――そっとしておいてあげよう。
 壮介は渚沙の方を見て小さく首を横に振る。


 壮介はキッチンに戻ると、ジンジャー・シフォンケーキ作りを再開した。それからしばらくして、ハチミツの優しい甘い香りと生姜(しょうが)のピリッとした辛みを含んだ匂いが、スツールに腰かけうな垂れている女の鼻先に届く。
壮介は焼きあがったジンジャー・シフォンケーキを薄柳色のプレートに載せ、粉糖をサラサラと振りかける。バラの絵のティーカップにベルガモットティーを淹れ、スプーン一杯のリキュールを垂らす。ソーサーに金スプーンを添え、粉糖で真っ白に化粧されたジンジャー・シフォンケーキを、うな垂れ座っている女性客の前に差し出した。ジンジャーケーキの薄黄色と、ほのかに漂うベルガモットの香りが食欲を呼び起こす。


女は金のフォークでシフォンケーキを切り分け、口に運ぶ。堅く閉じられた口から、うっ、う~、うっ、声が漏れ出てきた。涙ぐんでいるようにも見えたが、その後も女はシフォンケーキを口に運んだ。やがて、シフォンケーキを食べ終え、最後にベルガモットティーを飲み干した。そして、今までで一番大きな深いため息をついた。
「美味しいです……」
たったひと言発すると、同時にポロポロと涙がこぼれ落ちた。


 壮介はカウンターの中から何と声をかければいいのか、どう慰めればいいのかわからなかった。
「このスイーツの名前は、『慕われる愛』と言います。お気づきだと思いますがこのスイーツには生姜を使っています。生姜は可愛いらしい小さな白い花を咲かせるそうです。生姜の花ことばが『慕われる愛』なのです」
「『慕われる愛』か、そうだよ。母親の愛は海より広くて深いんだ。子供にとっては絶対なんだよ。あたしは渚沙、あなたは」


 突然名前を尋ねられた女は、驚いたように渚沙と壮介をかわるがわる見て、どうしようかとしばらく迷っていたが、加奈(かな)と名乗った。
「加奈さん。わかっていると思うけど、今はあなたがしっかりしないと」
 渚沙は優しく声をかけたつもりだが、加奈は俯いたまま身動き一つしない。


 壮介は南海子を失った時のことを話しだした。
「ぼくは三年前に、妻をガンで亡くしました。もう大丈夫と思っていた矢先の再発でした。見つかった時にはすでに手遅れで。もちろん医者に言われたとおり、定期的に検査を受けていたんです。それでもわかりませんでした。正直、医者は何をやっていたんだと思いましたよ。なんのための定期検査だったのか。この藪医者って罵(ののし)り、恨(うら)みました。それ以上に、ぼくがそばにいながら、なぜもっと早く気が付いてやれなかったんだって、後悔もしました。小さな変化があったはずなんです。それを見逃していた。もっと早くに気づいてさえいれば、妻を死の淵に追いやることはなかった。それができなかった自分を、何度も何度も責(せ)めました。怒りと情けなさで、心も体もボロボロ。何がなんだか分からなくなって、気が変になりそうで、病室のベッドで眠っている妻が可哀そうで、妻の顔をまともに見られなくなり……」
 壮介は当時のことを思い出すと、途端に涙があふれてくる。


「それでどうされたのですか」
加奈が尋ねた。
「もちろん、毎日、見舞いに行こうとしたんです。でも、妻の顔を見るのが辛くて、怖くて行けなかったのです。行って何を話せばいいのか、わかりませんでした。それでも妻はずっと待っていたんです。そんなことわかりきったことなのに。ぼくは、ぼくは…」
「奥さまが可哀そう……」


「ええ、ぼくは酷い男ですよ。何日かして、気を取り直して見舞いに行ったんです。そしたら妻は、お仕事大変なんでしょ。あたしは大丈夫だからって。何もなかったように明るく笑うんです。そんなのみんな嘘なんです。来てほしいに決まっているのに。ぼくは妻に謝りました。そして、真実を話しました。余命三か月だと」
 加奈と渚沙は身を固くして聞いていた。


 冷たく重い空気がフロアに覆いかぶさる中、チリリンと元気よくドアベルが鳴ると、美咲が愛之助を抱いてにこにこしながら散歩から帰ってきた。美咲は今朝早くふらりと帰って来ると、それからずっと愛之助と一緒に散歩に出かけていた。女性客に気づくと、
「いらっしゃいませ。壮介さん、愛之助にお水を、あたしには、すっきりするものがいいな」
 美咲は愛之助を下ろすと、渚沙と女性客との間の真ん中のスツールに腰を下ろした。
                             つづく

【春のきざし】 予告
 加奈の娘がM町中央病院に入院している。それを聞いた美咲に態度がぎこちなくなった。

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