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【YOHAKU】確率論で、自己責任論をぶった切る。

今の学歴、今の会社、今の収入は全て、自分の努力や選択の結果なのでしょうか。
仕事で事故にあったり、収入が減ったりしても、それは自己責任なのでしょうか。

こんにちは、YOHAKUです。

今回は、自己責任論が声高に叫ばれる現状に疑問を投げかける、ある大学生の話を聞きました。

初めは、勉強をして大企業に入って稼ぐことが正義だと思っていた彼。
しかし、家族の話や身の回りの出来事から自分なりの「確率論」を導き出して、成功を個人の能力や努力に帰する今の社会に、違和感を覚えるようになったと言います。

そんな、今の世の中に対する考え方に一味、余白を付け足してくれるお話です。


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導き出した確率論

ー最近考え方が変わってきた、とのことで。どんな風に変わりましたか?

僕、確率がめっちゃ好きやねんけど。
「世の中全部確率論やな」って思えば、仕方ないかなって思えることができるってこと。
諦めがつくというか、割り切れるなって。


ーなるほど、確率論!たとえばどんなことですか?

バイトで塾講師をやってんねんけど、やっぱり勉強ってできる人とできない人がおんねんな。

俺は中学の時に勉強したことがほんまに全然なかったんよ。
けど俺より頑張ってる子でも、結果が比例してないことはあって。
俺がやってこなかったような量の宿題をやってても、なかなか伸びんかったり。
だから、やっぱり能力って差があるなって。
持って生まれる才能とか、自分ではどうしようもないことがあるんじゃないかっていうのが俺の今の考え。

勉強できるかできないか、稼げるか稼げないかとかって、自己責任やっていう人が世の中には多いやん。
Twitterとか見てても、自己責任論の人が多いと思う。
たとえば、受験に落ちた=自分が悪い、とか。

けど、能力とか環境とかって生まれ持ったものである以上、勉強できない人も悪くなければ、できる人も別にその人が頑張ったからってだけではないよなって思う。

そういう意味で、できる・できないとか生まれ持ったものって、あくまで確率でしかなくて。
たまたまどっちかの側にいただけ、って考えるようになった。

昔の自分には見えなかったこと

ーそうした考え方になったきっかけはなんでしたか?父さんの話の影響かな。
大学生になってから家族と話す時間がかなり増えて、どうやってこれから生きていこうっていうことも考えることが増えた。
その時、父さんがかっこよく見えたんよな。

僕、昔は結構思想が偏ってた時もあって。人を傷つけるような言葉を言ったり。
中高は普通に受験成功して割といいとこに行って、生活もそんなに苦しくなかった。
実家は高級住宅街にあって、400坪あるんよ。
だからね、そういう生活も尖ってる要因になってて。
高校も、高学歴な人が天下を取るっていうような文化やったし。
だから僕は中高まで、大企業に入る。んで、めっちゃ稼ぐっていうのが正義っていう世界で育ってきたんやけど。
父さんの影響がなければ、ずっとそのまんまやったやろうな。

父さん、そんなに悪い大学は出てないけど、介護福祉の仕事をしてるんよね。
んで、自分では負け組って言っているんやけど。
けどそれは、「自分がやりたかったから、やっている」とも言ってて。
自分で選んで介護福祉の道に進んだって。
父さんは社会主義的立場やねんけど、僕はずっと資本主義的というか「大企業に進むのが正義」って思ってたから、すごいインパクトがあった。

一番思い出に残ってる話があって。

トラックの運転手がいきなり交通事故で運転できなくなったら、それは自己責任か?って話。
例えば事故で足を失って、働けなくなって家族が路頭に迷ったとして、それを「その仕事を選んだのはその人やから仕方ない」って自己責任としてお前は切り捨てるって言えるんか?っていう話をされて。
その話聞いたら、人間の社会、それじゃおかしいよねって思ってしまったんよね。

それが、資本主義の社会やったら、切り捨ててしまうことになるんじゃないかっていうのが、僕の考え方を変えたターニングポイントやったんかな?って思う。

生まれ持ったものっていうのはあって、できるやつできないやつが存在するのは、そういう確率論があるから仕方ないとして。
けど、僕も勉強するっていう努力ができんかったから、全然勉強ができない側に行く可能性はあったわけで。
そう考えたら、「切り捨てる社会」っていうのはあかんなと思った。

「努力」は誰かを切り捨てる理由にはならない

ーなるほど……面白いです。

そういう差が存在してるとか、頑張ってもできない人が存在してるって、結局見方によっては差別になってしまうんかもしれんけど。
けど俺は、そういう差があったとしても、それは自己責任ではないって考え方で。

もともと僕も資本主義の考え方やったから、まぁその、頑張って勉強して、起業したり大企業に入ったり、しっかりと稼いで、社会的地位を築いて。
それで「俺は努力してきたからこの地位があるんや」「お前らは努力せんかったからその地位なんや」って言うような考え方が全然わからないわけではないんやけど。
だからといって、それは弱者を痛めつけていい理由にはならないっていう社会主義の考え方が気に入ってしまったんよ。

人の努力を完全に否定するわけじゃないけど、自分が努力したからっていうのは、努力しない人を貶める理由にはならない。
確率に恵まれた人は、その差を埋めていくのがある種義務なんじゃないかと思う。
切り捨てていい人生はないから。


ー努力は人を責める免罪符にはならない、ということですね。

似たような環境で育ったとしても、自分が成功したのは実力だからって思う人もいるだろうし、思わない人もいると思う。
努力しまくって成功した人ほど自分の頑張りを知ってるから、そういう面はあるかもしれんし。もしくは恵まれた家に育ったからこそのプレッシャーとか不自由さもあるかもしれん。
だから、自己責任論って根深いなって思うねんけど。

人と出会うのも確率やから、どんな親のもとに生まれるかも確率。
上手くいってる人たちは、生まれた時から今まで、確率が全部いい感じになっていったから、成功した。
必然じゃない。努力できるかどうかも確率やし。

頭の片隅に“確率論”


自分と全然違う人に出会ったり劣等感とか優越感を持ったとしても、「自分が持って生まれなかった確率に恵まれた人なんだ」って思うと、多様性も認められるようになると思う。

上手くいってもダメでも、割り切れるし。
例えば、教室にみんなが座ってて、自分がたまたま当てられるとか、そんな感じ。
僕は、色んなことしょうがないって思えるようになって、クヨクヨしなくなった。


ー記事を読んでくれた人に、何か伝えたいことはありますか?
今は実力主義の学歴社会
やから、すごい稀やと思うんよね、僕の考え方。

部活で他大の人と関わる機会も多いねんけど「努力してるから今の自分がいる」っていう人も多かったなって思う。
勉強できん人の生活をなんで保障しなあかんねんっていう考え方の人は多い。
学歴社会に疑いを持ってないような。

やっぱり、東大京大とか、官僚とか、大企業で稼いでる人とか、そういう人たちに「あくまで自分には恵まれた環境があって、努力できるポテンシャルがあって、うまくいっただけ」って感覚を持ってほしいな。

僕にとって今の社会って、いうたら例えば100本のくじ引きがあって、全員でせーのであげて、それで人生が決まるって感じ。
100億円のくじと200万円のくじ99本、それで100億円のくじを引いた人が「自己責任だ」って虐げるようなイメージがある。

みんなが自分の人生を確率の結果やと考えて、自己責任の言葉で誰かが切り捨てられないようになってほしいな。


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今回は、努力も能力も確率の結果だと考えることで、自己責任論に疑問を投げかける人にお話を聞かせてもらいました。

生まれもったものや、能力、努力するという才能と環境は、確かに確率によって決められていて、私たちには完璧にコントロールすることができません。
一方で、私たちは自分の成功を「自分が頑張ったからだ」と思いたがります。

今回インタビューした彼がこうした考え方にたどりついたのも、また影響を与えてくれた父の元に生まれた「確率」の結果だと言います。

そうした考えにたどり着くのも、辿り着かないのも「確率」。
それならば、こうした「確率」が存在するんだということだけでも頭の片隅に置いておくことで、交わらない可能性同士が交差する場所を生むことができるかもしれないと思いました。

このお話が、自分の余白を広げようと思えるきっかけになりましたら、幸いです。

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YOHAKUは、誰もがそっと抱えているけれど、他人から見えづらい事情にスポットを当てて、それが読んだ人の優しい想像力の余白となることを目指しています。

「最近こんなことに悩んでいる」
「なかなかわかってもらえないけれど、自分の事情を説明できたなら」
「こんな人もいるって知ってほしい」
こんな気持ちを抱えるかたがいれば、是非インタビューさせてください。

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文責:小林華

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