天敵には幸せでいてもらいたいのよ
大学時代の天敵ともいえる同期の奥さんが亡くなったらしい。まだ30歳になるかならないかという若さ。闘病の末ということだったが詳しいことはわからない。
天敵は私の友人の彼氏でありながら、大学の後輩に乗り換えて結婚までしてしまった。当時、誰にでもいい顔をして、調子のいいことをペラペラとヘコヘコと言っていた彼を私は毛嫌いしていた。彼も私に対して苦手意識を持っていたようで、上手く距離をとってくれていた。
まぁ、簡単に言えばソリが合わない相手だったのだけど、そんな彼の奥さんが亡くなった。奥さんにあたる後輩とも面識はあったのだけれど、天敵同様大学卒業後はすっかり疎遠になっていたので、突然の訃報にただただ驚くことしかできなかった。
生きていればソリの合わない人の1人や2人いるのは当然で、そんな人とは一定の距離を保ちつつも攻撃し合うでもなく、お互いに干渉しすぎないことが1番だ。不幸になって欲しいわけではない。逆に幸せそうに見えるからこそ、真正面から「天敵」として認め合えるというものだ。最愛の人を亡くした彼の気持ちなんて私には想像ができない。略奪愛といえば紛れもなくそうなのだけれど、10年ほど前の大学時代の素行なんて今となっては些細なことだ。あのときのツケが回ってきたなんて微塵も思えない。若すぎるでしょう。子どもはいたのかな……残された人たちのこれからを考えることも、残して逝かなければならなかった彼女の気持ちを思っても、思考を停止したくなる。
天敵の彼をはじめ、私の苦手な人たちには私よりも幸せに生きていてほしい。だからこそ軽口叩くつもりで、「天敵」だの「苦手」だの「ソリが合わない」だの言えるのだから。なんの試練も苦しみもなくのうのうと生きていてほしいのよ。
遠くに住む彼女のお通夜もお葬式にも駆けつけることができなかった私は、これから先2度と天敵の彼に会うことはないのだろうけど、どうか生き抜いてほしいと思う。
知り合いの「死」は苦しい。泣き叫ぶほど感情がぐちゃぐちゃにならない分、どうにかこの心のモヤモヤを言語化して消化したいと試みてしまう。人の死を自分のなかで意味付けしようとする私の思考は、不謹慎そのものなのかもしれない。「彼女の分もしっかり生きなくては」と思うには距離がありすぎる。それでも私は自分勝手に「生きなくては」と決意をしたよ。
大学卒業後の彼らの生活や生き方は何も知らないのだけれど、懸命に闘ったと聞きました。ご冥福をお祈りいたします。