私と日本共産党
祖父は敗戦とともに入党。レッドパージに合い、紆余曲折しながら党の専従。父は共産党系印刷会社に勤務。怪我をして入院した共産党系病院に勤務していた母と知り合ったとか。そんな家系ですから、社会問題は共産党的視点から考えることに。また、ディズニーランドには連れってもらえなかったけど赤旗まつりには何回も連れて行ってもらい(立川1回、夢の島数回)、にぎやかなところだたと好印象をもっていました。
しかし、多感な時期に父が共産党系印刷会社を早期退職と同時に離党。母はフルタイムで働くため、共産党系診療所に転職。ぎくしゃくする二人をよそに、私は部活に励み、民青なんぞの誘いは一蹴していた。
しかし、小・中・高と組合の先生との出会いが多く、修学旅行は中学が広島、高校が沖縄とどちらも平和教育がメイン。特に高校では石原都政の教育支配へ抵抗する姿を見て、共産党的考えがさらに補強されていった。大学では、全共闘世代の教授たちとの出会いが多く、自分の研究のために離党したものの、赤旗にもコメントをよせる軍事・憲法問題が専門の教授のゼミに入った。そこで半年、渡辺治の本を読むことに。
そんな時、共産党が運営する中越地震への物資支援ボランティアに一人で参加。何日間か共産党と諸団体が運営するボランティアセンターで泊まった。そしてその時、すんなり入党した。ただし、民青は保留。理由は、赤旗から見える民青がすごく自分勝手な人の集まりと感じていたから。ボランティアは土建青年部が多かったからか気さくな感じでよかったし、党外のヒッチハイクできた青年とかを受け入れる雰囲気もあり、食わず嫌いはだめだな~と反省。でもこれは、あういう場の高揚感だったのかも。(ちなみに、入党申込書にはどこかの地区委員長と落選中の笠井あきらさんに証人欄みたいなところに書いてもらたった記憶が。)
居住地に戻り、大学の支部に行くが、そこは民青中央委批判の巣窟だった。党の担当者とどうやらもめた後だったようで、ボランティアセンターの高揚感は一気に吹き飛ぶ。嫌だったのはよくわからないあだ名で呼び合う感じ。そして、頼まれたのは県党会議のための代議員を選ぶ党会議へ大学支部を代表して参加するということ。発言の機会はなかったが、よくわからず投票をした。
党員らしいことは、総選挙最終日に駅頭でチラシを配ったくらい。大学支部の組織は休眠状態になった。その間、教育基本法改正の時に校内で勝手に手作りポスターを貼ったり、デモや国会前抗議に個人で参加したりということはあった。
そんな中、9条改憲阻止のためにどんな安全保障政策が必要かが自分の興味をもつテーマであり、いろいろ考えたあげく、教授の「社会党の安保・自衛隊政策の変遷」という鶴の一声で卒論テーマが決まった。その時期に、共産党の安全保障政策をまとめていたのが松竹伸幸氏で、個人サイトを運営していためずらしい人だった。
そのようなこともあり、松竹氏の書籍や動向はよく見ていた。その後、松竹氏が参院の比例候補としての任務を外され、党本部職員を辞め、京都の出版社の編集者として相手にしている人を見ていると、党を離れているのかと思っていたが離れていなかったようで。
自分自身は、党員としての活動実態はなかったので、いつかの中央委員会総会の決定に従って党籍を抜いてもらった。
その後も、共産党の方針は読み続けたが、矛盾を感じたり、自分だったらこうするけどなっという「異論」を感じ、共産党を大きくしたい外野の立場から中央委員会にメールを送ったっり、ヤフーニュースのコメント欄、Twitter、noteでのつぶやきで少しでも「代々木に届け」の思いでさせてもらっている。今後もそうしていくが、共産党とのベクトルが同じであれば、理解や表現に濃淡があっても支持できるが、ベクトルが違うなとなると無自覚に共産党を支持し続けることはないんだなと体感している。特にここ数年。
今後の「私の日本共産党への思い」は様々な記事やつぶやきで判断してもらいたい。
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