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むかし中国の田舎を旅していた時

 むかし中国の田舎を旅していた時、広州市からバスに長時間揺られ、初めて訪れた不慣れな場所で、二時間かけ安宿をようやく探しあて、宿泊票に名前を漢字で記入したら、おもむろに受付の不愛想な小姐(女性)は、親から頂いた私の立派な四文字の名前である、仮に私の名前を「花家伸男」だとすると、その「男」の字だけ〇で囲むではありませんか!

 確かに中国では三文字の名前がほとんどですから、彼女は私の名前を三文字の「花家伸」だけで、「男」を性別と勘違いし、事務的に〇で囲ったわけですけど、それに名前にわざわざ性別をつけるのは、それこそへんと思われても不思議ではありません。
 名前を付けてくれた私の親の立場として、男らしい男、男の中の男、健康にすくすく育ってほしいという願いから付けたでしょうけど、日本では当たり前が、中国では当然と言えず、男と分かって男と付けるのは、何か別な思惑があって付けられたのではないか、確かに勘繰られても仕方ありません。
 また逆に女なのに名前に女を付けるかと問われれば、これも確かに女とつけた名前を見た記憶はありません。

 しかし、そこは私も一年近くアジアを放浪してきたプライドがあり、それ以上に立派な名前を付けてくれた親に対して申し訳なく、帰国しても合わす顔がありません。その前に、一年以上も自分勝手に海外を放浪しているわけですから、私の親が息子と認めてくれない可能性は大ですけど。
 普段であれば、まあ文化の違いだからと、別に気にもしませんが、これまでアジアを旅し、旅のたくみ、人呼んで旅匠としてのプライドが、ここ中国においてことごとく踏みにじられ、私の怒りも沸点に達していました。

 例えば、旅の必需品である小さい南京錠をなくし、新たに買おうとデパートに行き、ガラスのショーケースに値段と大きさが手ごろなの南京錠を見つけ、手に取って見たいと頼んでも、売り場の必ず小姐は「没有(メイヨー・ない)」と相手にしてくれません。そこにモノは “あるけどない” という意味です。
 「えっっつ、そこにあるでしょ、これ、これ!」と指さしても相手は応じず、また隣の売り場の小姐とおしゃべりに夢中になるのです。外国人との応対が面倒臭いのか、商品はたくさんあるのに、手に取ることさえもできず、意思も通じず毎回途方に暮れる日々です。

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 こんな按配で、何か食べたい、何か欲しい、どこか行きたいと言っても、たとえ目の前に現物があっても、最初に必ず言われるのがこの「没有(メイヨー・ない)」です。
 例えおカネがあっても、買いたいモノが買えず、欲しいモノが手に入らず、食べたいモノが食べられず、行きたいとこにすぐ行けない不自由さを味わったことが未だかつてありません。
 市場経済を謳歌するため、物価の安いアジアを旅しているのに、その拠り所の市場経済をどれだけ真っ向から否定されたことか。またこの旅の原資を作るために、重労働のバイトに汗流し、浪費を抑え、日雇労働、粉骨砕心、臥薪嘗胆、一日一善、品行方正のどれだけ辛い日々を過ごしてきたことか。

 なにはともあれ、これまで中国を旅してきて積り積もった小さな怒りが、マグマのように形となり、そして仕事する気が全くない小姐(女性)を前に、ついに怒りが爆発してきました。
 譲歩するものは多くあれど、こればかりは譲れず、四文字の名前を見たこともないのか、四文字の名前だってこの世に存在してもいいじゃなか。自分の名前を大きな四角で囲み、これだって立派な名前だ、別々にされては困る「No没有!No没有!」 “ないようである” のだ、日頃言われ続けている言葉に、全面否定のNoまで付けて反撃に出ました。

 すると、読んでる本をパタンと閉じ、ただでさえ不愛想な表情が一変、眼鏡越しに鋭い眼光を放ち、鬼の形相と化し大きく息を吸うと語気を荒げ、「見るから貧乏、貧相貧弱、その日暮らし、路傍の石。学習意欲、労働意欲、社会常識、まるで無し。たがが旅人、思想軽薄、支離滅裂、彼女無し。非社会的、貿易摩擦、中日友好、破壊分子。言語道断、この世の見納め、覚悟しろ!!」と叫ぶかのように、機関銃の連射モードの中国語と筆談で一方的にまくしたてられました。
 さらに勢い余って赤ペンなんかも取り出し、すでに宿泊票の「男」の〇は、ボールペンの〇からマーカーサイズの太い◯へと変わり果て、更にぐじゃぐじゃにされゴミ箱にポイと無下に捨てられてしまいました。

 熱い中、何軒も宿泊を断られ、二時間もかけてようやく探し当てた安宿であることを思い出し、私はゴミ箱から自分の宿泊票を破れないよう丁寧にひろげ、「没問題、我的名字、三文字デス、泊まれるだけでも、究極幸福、一晩だけでも、文句なし・・・」と、手を合わせ拝みながら筆談で訴えました。
 その甲斐あってか、彼女の連射モードの罵詈雑言は単発へと納まり、なおもブツブツ言いながらも、部屋の鍵をポーンと乱暴に投げつけ、早く行け! 追い払われるように手で合図し、読みかけだった本にまた視線を落としました。

 私は重いバックパックを引きづってその場から立ち去り、頑丈で重い鉄の扉を開け暗い部屋に入り、安宿独特のすえたニオイやぺらぺらの薄いマットレスも、もはや気にならず、横になるとなぜかしら一筋の涙がでてきました。

 今日の寝床を確保できたことへの安堵なのか、朝四時からの長距離バスの疲労なのか、なんでこんなことしているのか、これでいいのか、と訳が分からず、だけど、冷えたビールが飲みたい・・・と、想いを香港に寄せると思わず顔がにやけ、いつしか寝入ってしまいました。


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はなじゃ
旅は続きます・・・