hanaike Books #7『ことばが劈(ひら)かれるとき』
暮らしに添えていただきたい書籍を、リレー形式で紹介いただくhanaike Books。
今回のライターは、演劇プロデューサーの荒井 洋文さんにご紹介いただいた、チベット医の小川 康さんです。
大学受験のあたりから知識と身体のバランスが崩れて硬直化しはじめた。いわゆる頭でっかちである。そんな自分に嫌気がさし薬学部卒業と同時に堅実な人生を投げ捨て、その6年後にチベット医学を志すことになる。
チベット亡命政権のあるダラムサラへ向かう夜行バスのなかでチベット語の学びがはじまった。まずは数字を覚える。チク(1)ニ(2)スム(3)と大袈裟に大きな声で唱えると車内のチベット人たちが温かく見守ってくれた。こうして幼児のようにゼロから新しい言語を習得する体験は新鮮だった。
その後、チベットの医学古典をひたすら暗誦し、10年後には医師としてチベット語でチベット人を診察するまでになった。なぜだろう、学びの分量と厳しさは同じでもチベット語では身体が硬くなる感覚がない。そんな素朴な疑問とともにそれまで自明のごとく操っていた日本語を振り返る切っ掛けとなったのが本書である。
著者の竹内さん(1925~2009年)は耳の病気が原因で会話が不自由だったが16歳から新薬のおかげで病が徐々に回復する。それから並々なる努力で意図的に言語能力を獲得した経験をもとに、ことばで伝えることの本質、さらに「ことばとからだ」の関係性を分析し、それは演劇教育という分野で結晶していく。
私は自分に間違いなくほんとうと感じさせられることから出発して、一つ一つ確かめつつことばを組み合わせたり論理を発展させることにつとめてきた。
たしかにチベット語を話すときは一つ一つことばを確かめながら、組み合わせながら、語尾に気をつけている。一生懸命で、丁寧に、そして前のめりになる。身体全体を使って話そうとする。いっぽう日本語で会話をするときは重心は後ろ気味で、雑で、口だけで話しがちになる。なるほど、よどみない語りが最高の伝達手段とは限らないことに気がつかされる。むしろ言葉が喉に詰まって溢れそうで、前のめりになるような、ことばとからだが同時に動き出すようなときにこそ言葉は相手の心に届くのではないか。
いっぺん私たちはオシにもどろうと、とさえいいたくなる。絶対にことばを必要とする状況、そのときのからだになったとき、はじめて声を発してみよう。たぶん今は、ことばが多すぎるのだ、ことばの残骸が。
20代のころは薬草の学名や効能を弁舌さわやかに語っていた。しかしチベット社会での生活を経て50歳となったいまは「薬草を言語で表現すること」へのいい意味での諦めが生まれ次第に歯切れが悪くなってきた。ためらいのない解説や講演はどこか表面的に聞こえてしまう。だからこそいま、大自然や地域社会のなかに身をさらしながら、草花、樹木と向かい合っている。薬草について、花について、樹木について聴衆に語るとき、言葉では伝えきれない、ためらいがちな身体こそがわたしの「ことば」ではないか。そう明確に自覚するとともに、自分の語りに変化が生まれたのは2015年に出会った本書のおかげである。
関連書籍
言語にとって美とはなにか(角川ソフィア文庫)
ぼくの命はことばとともにある(致知出版社)
writer
小川 康(おがわ・やすし)
1970年、富山県生まれ。薬剤師。1999年にダラムサラへ渡り2009年チベット社会からアムチ(医師の意味)として認められる。現在は長野県上田市の山奥で「薬房・森のくすり塾」を営んでいる。日本の伝統薬、入浴剤、お香、絵本など販売しているが、普段は畑仕事、山仕事をしていることが多い。
※リレー形式で続けてきた「hanaike Books」は、今月をもって、しばし休載させていただきます。