「ボタニカ」
「知りたい」は、わたしの原動力だ。
何かの「目的」を達成するためではなく、ただ「知りたい」欲求そのものが「目的」であり、「瞬発力」だ。
この「知りたい」が何かを突き詰める、極める方向に発動していれば、学者や博士になっていただろう。
また、この「知りたい」を知ることで新たな「知りたい」を生み、世界に新たなつながりを見出し地図を広げていく作業を行っていたのなら、きっと今頃は、知の巨人と呼ばれているだろう。
そう、「だろう」であって、実際には個人レベルの「知りたい」に留まっていて、生産的な「昇華」や「貢献」に結びついていない。そういう意味で、消化不良で残念な状態に感じてしまう。
そして「知りたい」欲求は、割と散漫であちこち飛ぶのだけれど、全く発動しない「興味ゼロ」チーンってことも多々ある。
数ある「興味なし」の一例が、「大河ドラマ」「朝の連続テレビ小説」だ。そもそもテレビをほとんど見なくなっているが、NHKは特に見ない。テレビをよく見ていた頃からNHKはあまり見なかった。特別に敵視しているわけでもなく、ある一時期はEテレを見続けていたことはある。それでも、長い人生を振り返り、話題にのぼって耳にすることがあっても「見たい」「見よう」につながったことがない。「鎌倉殿」も「あまちゃん」も噂しか知らない。いや逆に、全く見たこともなく興味もないのにタイトル知ってるってすごいことだ。
そんなわけで、今期の連続テレビ小説が「らんまん」であることは知っている。植物学者「牧野富太郎」さんがモデルとなったことも知っている。本屋さんに行くと、関連書籍コーナーがあったりする。そこで気になったのが「ボタニカ」。ちょうどAudibleにあったので聴いてみた。
大好きな「植物」の名が知りたくて、もっともっと知りたくて、ただひたすらに植物の採集、研究、分類だけに突き進む。
なんて一途なのだろうという思いと、迷惑な人だなという思いが錯綜して複雑な心境になる。周囲の人に恵まれて、もしくは家族の「犠牲」の元に、自分の研究を優先に、それしか見えずに進んでいく。うらやましい。
まず「うらやましい」と「嫉妬」する気持ちが沸き上がる。一方で、迷惑かけすぎ、ダメ人間だなと批判的な気持ち「怒り」も湧いてくる。
わたしの中に「富太郎エッセンス」があり、それを発揮できていないことや情熱を傾けるただ一つの道が見つからないこと、それらが「嫉妬」につながっているのかもしれない。
「生活のため」と苦手なことを抱えざるを得ないと思い込んでいるために、それじゃダメだと「勝手な(そう見える)」富太郎に「怒り」が湧くのだろう。
なんだかんだ「ダメ人間」でありながら、なかなかの「愛されキャラ」として生きたのだ。そう描かれているだけなのかもしれないけれど、結局、うらやましいと思っている。
自分が一点集中の情熱の注ぎ先を見つけあぐねているためか、「偏愛」するものを持つ人に惹かれる。専門書は難しいけれど、何かの専門家が書いた愛に溢れる一般書は大好きなジャンルだ。
そんな気持ちを抱えながら、今日も「知りたい」を発動し、せっせと本を読んでいる。