泥人形の物語
はじめに
短い物語を書きました。
書こうと思ったきっかけは、ある方が書かれたとても悲しい記事です。
その方はお子さんを亡くされ、生きる希望を見いだせないとのことでした。
何か声をかけて差し上げたいと思いながら、私はかける言葉を見つけられないでいました。
その言葉を見つけられたわけではありませんが、なんとなく、自分がその方に伝えたいのはこういうことだろう、というのがわかってきました。
と、結局うまく説明できないのですが、そんな物語です。
海辺のできごと
週末の午後、女の子は家族と海に遊びに来ていた。
よせては返す波がとても穏やかな、天気の良い日だった。
しばらく皆で遊んだあと、家族が「疲れた」と言って少し離れた日かげに行ってしまったので、女の子は一人で遊ばなければならなくなった。
ひとり遊びに飽きてきたころ、ふと顔を上げてみた女の子は、空の上の方にあった太陽が、いつの間にか、とてもきれいな夕日になっていることに気が付いた。
「ねえ!夕日がきれいだよ!」
女の子は家族に声をかけた。
けど、家族は他のことに夢中で聞いてくれない。
(こんなにきれいなのに、他の誰にも見られないなんてもったいない。)
そうだ!とひらめいた女の子は、一緒に夕日を見てくれる友達を作ることにした。
女の子は海辺の砂をこねて、泥人形をひとつ作った。
「さあ、見て!あのきれいな夕日を!」
女の子は自分が作った泥人形に向かって言った。
女の子はその後もどんどん仲間を作っていく。
何体作ったかわからなくなったころ、女の子を呼ぶ家族の声が聞こえた。
「○○、帰るよー」
「はーい」
女の子は家族のもとに駆け寄った。
風にさらされ、波にさらわれ、泥人形は1体また1体と、ただの砂に戻っていった。
泥人形の物語
女の子に最初に作られた泥人形。
彼はきれいな夕日を見ることができた。
彼は思った。
(なんてきれいな夕日だろう!)
後から増えた彼の仲間は、彼と同じような姿形をしていたが、夕日を見ることはできなかった。
なぜなら女の子は、彼にしか目を描いてくれなかったから。
彼はどうにかして他の仲間にも夕日を見せてやりたかった。
けれど彼の足も手も、動くことはなかった。
「残念だ!みんな、こんなにきれいな夕日を見れないなんて!」
と騒ぐ彼に、彼の仲間はこう言った。
「きれいな夕日なんだね。でも大丈夫。ぼくたちは夕日を見ることはできないけれど、吹いてくる風を感じることはできるし、波の音を聞くことだってできるんだ。」
風にさらされ、波にさらわれ、泥人形は1体また1体と、ただの砂に戻っていった。
どの泥人形も、泥人形になることがなかった他の砂たちと、一緒になった。
あとがき
私と妻のもとに来てくれた最初の子は、妻のおなかの中で亡くなりました。
その次に来てくれた子たちも同じように、妻のおなかの中で亡くなりました。
最後に来てくれた子は無事に生まれ、当記事を執筆時点で小学生です。
彼らには、私を父親にしてくれたことや、幸せな時間を与えてくれたこと、感謝しています。
あの子たちには、単語の意味通りの”人生”は無かったですが、妻のおなかの中で幸せな時間を過ごしてくれていたはずだと、信じています。
私が彼らにしてあげられたことはほとんどありませんが、私もいつかはただの砂に戻って、あの子たちと一緒になれます。
その日まで、目に見えるものや肌で感じられることを、一つ一つ大事にしていこうと思います。
さいごに、いつかあなたの心の波がおだやかになること、あなたの目に素敵な夕日が映ることを、お祈りしています。
※なお、上記の物語は「DEATH 死とは何か(シェリー・ケーガン著)」という本の中で紹介されている泥人形の行(「猫のゆりかご(Cat's Cradle)」という本の中の一節とのこと)から着想を得ています。
ほとんど原型を留めていませんが、一応補記しておきます。