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【京都寺町通を歩く】③鴨沂高校周辺は平安時代の法成寺址。鴨沂高校の前身は九条家河原殿にあった明治期の女紅場


道長の法成寺址


廬山寺
を出て、寺町通を南に歩くこと数分。広小路通を過ぎ、荒神口こうじんぐち通を挟んで北側に京都府立鴨沂おうき高校のグラウンドがある。見過ごしそうになるが、その荒神口通の高校側の塀にめり込むような形で、小さな『法成寺ほうじょうじ址』の石碑がある。
法成寺は藤原道長(966-1028)が建てた寺で、摂関期最大級の規模の寺だったが、現存していない。現在は石碑と説明文があるのみで、法成寺がここにあったことを知らない人も多いと思う。実際わたしも京都に来るまで知らなかった。

上京区荒神口通寺町東入北側(見つけにくいです)

法成寺はどこにあったのか


平安時代中期、浄土信仰に熱心だった藤原道長は、晩年の1019年に出家した。1020年、自邸の土御門殿つちみかどどのの東側に無量寿院建立、1022年に法成寺と改名。
道長は寺で暮らし、阿弥陀堂で死去した。死に際、九体の阿弥陀如来像の手と自分の手を五色の糸でつなぎ、釈迦と同様に北枕西向きに横たわって、西方浄土に生まれ変わることを願いながら往生したという。

壮大な伽藍は、兵火や地震、鴨川の氾濫など災害でたびたび倒壊・焼失・流失し、そのたび再建されたが廃れ、鎌倉末期に廃絶した。

さて、法成寺はどのあたりにあったのか?
京都市埋蔵文化財研究所などの資料によると、推定場所は荒神口より北、寺町より東の鴨川までとされている。大きさは、方4~6町(方1町は「一町四方」のことで、120㍍四方)に及んだという。
道長死後寺内に建てられ、1058年の火事で類焼した東北院とうぼくいんは再建され、江戸時代に左京区浄土寺真如町じょうどじしんにょちょうに移転、現存している。

法成寺は「御堂みどう」とも呼ばれ、それから「御堂関白」が道長の異称となった。しかし道長は「内覧」「左大臣」であったが、関白には就任していない。
法成寺は宇治の平等院(1052年に道長の子・頼道の宇治殿から改名)のモデルという。法成寺の豪華絢爛さは『栄花物語』『大鏡』などに書かれている。

平等院鳳凰堂

道長の有名な望月の歌


この世をば我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば
娘三人を皇后として入内させ、天皇の外祖父として権勢をふるった道長だったが、病気(糖尿病か)に悩み、多くの子どもに先立たれた。この歌を詠んだ翌年に出家。世の中には末法思想が広まりつつあり、道長は阿弥陀仏の西方極楽浄土を願い法成寺造営に傾注した。
※西方にある極楽浄土という仏国土ぶっこくど(浄土)の教主とされるのが阿弥陀仏。

近年の発掘調査


すぐ近くの梨木神社境内でのマンション建設※に伴い発掘調査が行われ、法成寺の北限にあった溝や井戸の跡、土器などが出土した。
※この件については当ブログ「寺町通を歩く」①梨木神社に詳しく書いているので、よろしければそちらをお読みください。

<参考>京都市考古資料館 公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所「紫式部が見た平安京」・フィールドミュージアム京都「法成寺址」・Wikipedia・コトバンク

女紅場と鴨沂高校の歴史


鴨沂高校は明治期、鴨川右岸丸太橋西詰の旧九条殿河原町邸跡地にあった、女紅場にょこうばという女子教育機関に始まる。現在創立150年を超える非常に歴史が古い学校。
名の由来:「鴨」は鴨川、「沂」は水ぎわ、ほとりの意味。

【歴史】
1872年、前身となる女紅場創立 その後「京都府立女学校」になる。
1900年、現在の寺町通沿いに移転。学校には茶室と正門が同邸より移築された。「京都府立京都第一高等女学校」になる。
1937年、ヘレン・ケラーの講演が行われた。俳優の山本富士子田宮二郎ら多くの有名人の出身校として知られる。
1948年、学制改革により「京都府立京都第一高等女学校」 は廃止、新制高等学校の京都府立鴨沂高等学校となり現在に至る。現在は共学。
2013~2018年、耐震工事のため歴史的価値のある外観を残しながら改築工事が行われた。

わたしは以前、鴨沂高校の周辺をよく歩きましたが、昭和初期に建てられたという旧校舎は、さすがに老朽化が激しかった。夜はちょっと…不気味な感じがしました(個人の感想です)。それが数年間の工事を経て様変わり。すっかり明るくてきれいな校舎になって驚きました。
鴨沂高校は定時制があったと思いますが、現在は募集していない模様。

九条邸より移築した鴨沂高校正門

女紅場跡地は京都中央電話局庁舎になる

同校が寺町通に移転後の跡地には、1923年に京都中央電話局庁舎竣工、1959年廃局後は日本電信電話公社(現NTT西日本)の関連施設になる。1997年、登録有形文化財登録される。現在1階はスーパーフレスコ、上階はスポーツクラブになっている。

女紅場とは


女紅場とは明治初期の女学校の一種で、裁縫・機織・袋物などの手芸(これを女紅という。女紅は、女工=女巧の意味)や読・書・算の初歩、礼法を教えた。女紅場は関西を中心に一部地域で広がった。対象、教える内容は学校によりさまざまで、遊廓で芸妓・娼妓に学問や技芸を教えたところもあった。
八坂女紅場学園やさかにょこうばがくえんは、京都市東山区祇園町南側に本部を置く学校法人。舞妓・芸妓の教育機関である祇園女子技芸学校ぎおんじょしぎげいがっこうを設置する。ここも明治時代の八坂女紅場にルーツがある。

旧京都中央電話局上分局(国の登録有形文化財)左下に石碑あり

女紅場址

女紅場の碑(北面)

丸太橋西詰にある石碑。1942年建立で、建立者は京都鴨沂会おうきかい
刻まれている文字は見にくいが、次のように書かれている。

本邦高等女 学校之濫觴  女紅場址  従是  西九十三米 南九十米

濫觴らんしょう:はじまり 従是 :これより 石碑の場所より西に93m 南に90m
西面には

女紅場ハ京都府立京都第一高等女学校創立当初ノ名称ニシテ 明治五年四月十四日旧九条家河原殿ニ開設セル者ナリ

このあたりは旧九条家河原殿(五摂家の一、九条家の別邸)。女紅場(京都府立京都第一高等女学校の当初の名称)は1872年ここに開設された。英学と女工(手芸・手工)の二科を置き、英国人イーバンス夫妻を教師に招き、新英学校女紅場と呼ばれた。のち京都府立京都第一高等女学校、現府立鴨沂高校の前身。

(参考:フィールドミュージアム京都・公益社団法人京都鴨沂会ウェブサイト・鴨沂高等学校ウェブサイト、Wikipedia)

京都御苑にあった九条邸

京都御苑内 九条池 厳島神社

九条家は、藤原北家嫡流の一つである公家、五摂家の一。京都御苑南西部、境町御門さかいまちごもんを入ってすぐのところに旧九条邸があった。明治になり、東京奠都てんとに伴って、主要建物は東京の九条邸に移築された。近年になり建物は東京国立博物館に寄贈(九条館)。広大だった御苑の旧九条邸は、現在池の畔の茶室と鎮守の厳島神社いつくしまじんじゃだけが残る。

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