雲の影を追いかけて 第3章「中盤」全14章
第3章「中盤」
翌日、降り続いた雨は上がった。ビルの壁に付いていた埃が洗い流され、街の輝きが増していた。裕と田中は、牛丼屋から田中の家を目指し歩いた。
閑静な住宅街の一角に田中の家が佇む。田中は玄関を開けた。
「さあ、どうぞ」
緊張する裕は、視線を振りまきながら靴を脱ぎ、玄関に上がった。田中が先導し、二人は廊下を抜けリビングに入った。中央に木製の大きなテーブルがあった。
「さあ、座りなよ」
田中は椅子を引いた。裕は椅子に座る。
「麦茶でも、飲むかい?」
「ありがとうございます。頂きます」
田中は冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注いでテーブルへ置いた。
「母さん、裕君がきたよ。母さん。母さん」
田中は大声を上げた。すると、階段からドタドタと大きな足音聞こえてきた。その直後、扉が開き、田中の母がリビングに姿を現した。
「やだー、来るのが早かったわね。ようこそ、田中家へ。家事が忙しくて、化粧も出来なかったわ。芥川賞受賞の小説家さんの前で恥ずかしいわ」
田中の母は頬を両手で隠し、恥ずかしそうに枯れた声を出した。足元に濡れた衣服が入っている洗濯籠が転がった。
「おはようございます。あの、まだ受賞はしていません。最終選考に残っただけです」
「そうなの。まあ、もう受賞したも同然よ。裕君が書いた『月の雫』を昨夜、読ませてもらったわよ。本当に素晴らしかったわ。あー、私もあんな恋がしてみたいわ」
「読んで頂き、ありがとうございます」
「次作も読ませてね。あ、それで今日の本題ね。息子から聞いたけれど、裕君は相当な年上好きなのね。流石小説家だわ。独特の感性というか、何というか。もう少ししたら、祥子さんが来るから、待っていてね。綺麗な人だから年の差を超えて、気にいると思うわ」
田中の母は満面の笑みを浮かべた。髪の毛には白髪が、顔には皺が目立つ。そして、田中が言っていた通り、お節介焼きのようだ。言葉が次々と飛びだす。悪気はなさそうで、裕は幾分安心した。
「じゃ。僕は、シャワーを浴びて、横になるよ。今日も夜勤だから。裕君頑張ってね」
裕が頭を下げると、田中はリビングを後にした。裕は冷たい麦茶を飲んだ。すると、心臓が早鐘を打つのが分かった。
大学生の頃、ある女性と交際していたが、退学と同時に破局した。その後、女性との関わり合いは全くなかった。恋愛を捨てたわけではない。性欲を捨てたわけではない。
ネオンが輝く如何わしい街へ向かい、性欲を助長する客引きオジさんの声に耳を貸しつつ、裏路地を何度も往復することがあった。けれども、不安定な収入、容姿への自信のなさが背中を強く引き、店から足を遠ざけた。その結果、小説の執筆へ時間を費やすことになったため、結果的には良かったかも知れない。しかし、本当に欲していることなのか、と神の裁きを受けるとなると、欲望の不明瞭さに吃ってしまいそうだ。
とりあえず、祥子と会ってから決めようと楽観的になり、玄関のチャイムの音に意識を集中させ、速まる心臓を撫でながら待った。
田中の母は、裕の対面に座り、無数の質問を投げ続けた。裕は出来る限り丁寧に受け答えした。記者会見の予行練習だと自分を慰め、拙い日本語を絞り出した。本心は、回答を原稿用紙に鉛筆で書かせてくれ、と。
合戦の始まりを告げるような、両耳を貫くチャイムが鳴った。田中の母は会話を止め、走って玄関へ向かった。裕は同じ姿勢で待ち、どのような表情で挨拶をし、どのような言葉で自己紹介をしようか、と真剣に考えた。笑顔で好青年の香りを放とうか。それとも小説家として、抽象的な言葉を織り交ぜるべきだろうか。無口で無愛想な態度をとるべきだろうか。あれこれ思い浮かべたが、答えは見つからなかった。
そして、リビングの扉が開いた。
「こんにちは」
祥子は挨拶をした。白いブラウスから、透き通るような白い腕が覗く。黒く光沢のある肩まで伸びた髪の毛。鼻は少し高く。一重瞼で、少し垂れた目尻。桃色の口紅を違和感なく小さな唇に塗っている。田中の母と同じ年とは思えない容姿だった。裕は言葉を失い、頭を小さくお辞儀させた。
「やだー。裕君、緊張しているのかしら。さっきまであんなにベラベラ話していたのに」
田中の母は哄笑した。
「私はどこに座れば良いの?」
祥子は田中の母に尋ねた。田中の母は裕の向かい側の椅子を引き、祥子を座らせた。祥子が椅子に座り、田中の母がお茶を淹れ始めた。俯いている裕は、少年が土管から外を覗きみるようにそっと顔を上げ、祥子を見た。祥子の目尻に数える程の皺があり、若干安堵した。
「裕君。初めまして、佐々木祥子です。宜しくお願いします」
祥子は笑みを浮かべ、挨拶をした。声は瑞瑞しく、心地よい響きがリビングに広がった。裕は緊張しつつ挨拶に答えた。
「こちらこそ初めまして、岸田裕です。宜しくお願いします。急に、このような時間を作って頂き、本当に申し訳ありません」
「いえいえ。大丈夫ですよ。裕君と、お会い出来て嬉しいです」
祥子は答えた。
「はいはい。お二人とも、もっと気軽にね。高級料亭でお見合いする訳じゃないんだし。お茶とお菓子をどうぞ」
田中の母は、裕と祥子の前に淹れたてのお茶を置き、パックに入った和菓子の詰め合わせを籠に入れ、テーブルの真ん中に置いた。そして、自ら抹茶最中を一つ取り出して、封を切り、口に放り込んだ。裕と祥子は田中の母の動きを眺めた。田中の母は、抹茶最中を噛みながら話を続けた。
「祥子さんは、私と同じ年で、幹線道路沿いの大きなスーパーで働いているのよ。えっと、今は五十九歳だったわよね?」
田中の母は祥子を見る。祥子は小さく頷いた。
「でも、見た目はこんなに違うの。私はどこで、間違ったのかしら。こんな、肌やお腹になってしまって」
「そんなこと無いわよ。充分綺麗よ」
祥子は言った。冗談混じりのお世辞ではなく、本音を言っているように裕には聞こえた。
「ありがとう。あら、私が喋っても仕方がないわね。裕君と祥子さんが、会話を楽しまないといけないわ。後は、お若い二人でね。うふふ。あら、祥子さんは私と同じ歳だわ」
田中の母は口に手を当ながら、急いでリビングから出て行った。
田中の母が消えて、リビングに平静がやって来た。幹線道路から漏れ出す車の走行音が、刻々と近づいて来た。
「裕君は、小説家さんと聞きました。普段どんな作品を書いているのですか?」
祥子は裕の目を真っ直ぐ見ながら問いかけた。
「ええっと。純文学ですかね。ジャンルを聞かれると、少し困ります。純文学に該当するのかは、読者が決めてくださると思いますので」
「純文学ですか。うっとりする言葉の響きですね」
「そうですね。僕も好きな言葉です。祥子さんは、普段、読書はされますか?」
「若い時は、読書が好きでしたが、最近は父の介護が忙しくて、本を読む時間を作れていません。でも、裕君の書いた本は読んでみたいですね」
「お父さんは、身体が悪いのですか?」
「はい。ちょっと病を患ってまして。殆どの時間、家の中で寝たきりの生活をしています。身内も居らず、私が介護しています」
「そうですか。大変ですね」
「湿っぽくなりますね。父のことは、忘れてくださいね」
「いえいえ、今後の僕達にとっては重要なことですよ。あ・・・」
裕は口が滑り、乾いた口から自然に言葉が漏れてしまった。出た言葉は引っ込まない。頬が夕陽のように赤く染まり、俯いた。祥子は笑みを浮かべた。
「お外を散歩しませんか? 裕君のこと、もっと色々知りたいです」
「はい。喜んで、お供します」
裕が立ち上がり、祥子も立ち上がった。すると、二人の会話を盗み聞きしていた田中の母は、ニヤついた笑顔でリビングへ入ってきた。それから、テーブル上にあるグラスや和菓子を片付け始めた。出掛けて来なさいという、田中の母の無言の気遣いだ。
「では、お世話になりました。行ってきます」
裕は田中の母に深く頭を下げた。
「はーい。裕君また遊びに来て、小説の話を聞かせてね。それと受賞報告もよろしくね」
田中の母は、裕の肩をパチンと叩いた。
「分かりました」
「田中さん、また職場でね」
裕と祥子は田中宅を後にし、歩き出した。サンダル履きの田中の母は、手を振って二人を見送った。
第3章 「後半」へ続く。
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