『義』 -秘密基地- 長編小説
秘密基地
夏草が丁寧に刈られた畦道を歩き、秘密基地入り口の笹薮の前に着いた。大輔は懐中電灯を点け、茂る笹を掻き分けようと手を伸ばした。
「おい。ここから入るのか?」
健斗は大輔のTシャツを引っ張ってとめた。
「この先に、秘密基地があるからな。気を付けろよ。足を滑らすと、少し痛いからな」
「おいおい。笑っている場合じゃないぞ。農道や林道とかはないのか?」
「ない。それでは、秘密基地にならないだろ。獣はいないから安心しろ。さあ行くぞ」
大輔は懐中電灯を片手にし、身長ほどに成長した笹を掻き分けながら進んだ。健斗も仕方なさそうに、大輔に続いて歩いた。二人のTシャツには汗が滲んでいた。
暫く歩くと、幹が根元から二つに分離しているクヌギの木が生えていた。この木が、秘密基地の目印だった。
「おかしいぞ」
大輔は懐中電灯で周りを照らした。しかし、懐中電灯の明かりの先には、笹や木以外は見当たらない。開けた場所もなく、貴洋が敷いたはずの木の板もない。少し遅れ、健斗が辿り着いた。
「おいおい。歩くペースが速すぎるぞ。こっちは都会育ちなんだから気を使えよ。こんな藪の中で遭難したくないだろ。まったくもう」
「健斗・・・。秘密基地が消えた」
「消えたと言っても、真っ暗闇の藪の中で、秘密基地を探せるわけがないだろう?」
「いや、そんなことはない。このクヌギの木が、秘密基地の目印なんだ。このクヌギの木の下に、俺と貴洋くんの秘密基地があった。間違いなく、この場所だ」
大輔は懐中電灯を彼方此方に向ける。
「秘密基地って、子供の頃の話だろう。十年以上も前のことなら、木の形は変わらないにしても、生えている笹も育つだろうし、木の板を敷いていたら、腐るか、地主が撤去するだろう」
「帰省した数週間前に、貴洋くんとこの場所で会った。畳二畳くらいの空間があり、木の板が敷かれていた。誰が、俺たちの秘密基地を壊したんだ」
「そんなことは、不可能だ。たった数週間で、笹が周りと同じ高さまで成長するとは考えられない。そして何より、貴洋くんは一ヶ月も前に死んでいたはずだ。だから、貴洋くんと会うなんて不可能だろ。幼馴染を失った大輔の寂しい気持ちは分かるが、事実を受け止めないといけない」
健斗が冷静な口調で言うと、大輔はリュックサックから鉈を取り出し、伸びる笹を根元から切り落とした。
「大輔、何をするんだ?」
健斗は大輔の肩を掴む。
「秘密基地を作るんだ。俺らの秘密基地を」
「なにも、夜にすることじゃないだろ。持ってきたビールが温くなるぞ」
大輔は手を止めない。右手に鉈を持ち、左手に懐中電灯を持ち、笹を切り落としてゆく。
「やれやれ。大輔、俺も手伝う。懐中電灯を貸しな。俺が照らしてやるよ。そんな体制じゃ力が入らないだろ」
健斗は大輔のTシャツを引っ張る。大輔は懐中電灯を渡した。
目が血走る大輔は、何者かに取り憑かれたように、無心で笹を切り落としてゆく。健斗は大輔の前を懐中電灯で照らしながら、切り落とされた笹を、足で踏み固めてゆく。笹が切り落とされる音、そして踏みつける音が笹薮に鳴り続けた。
暫くすると、鬱蒼と茂る笹薮に、二畳ほどの空間がぽっかり空いた。
「まあ、こんなもんだろう」
大輔は鉈をリュックサックに戻した。
「もう、大輔には敵わない。こんな夜に、秘密基地作りをさせられるんだからな。お蔭で、汗びっしょりだ」
「まあまあ。さあ、座って、ビールを飲もう」
二人は笹のクッションの上に座った。大輔はリュックサックからビール缶を取り出し、健斗へ渡す。缶の蓋を開けると、軽やかな音が鳴った。
「美味いけれど、ぬるい」
大輔が言った。
「秘密基地が出来たことだし、貴洋くんのことを教えてくれよ」
「分かった・・・。以前帰省した時の話だ。さっちゃんと三人で海水浴に行っただろう。その晩、健斗が眠ってしまい、俺は独りでバーボンを飲んでいた。気分が良くて何杯も飲んでしまい、気が付くと、この秘密基地に座っていた」
「独り?」
「違う。隣に貴洋くんが座っていた。記憶が飛ぶほど酔っ払い、知らぬ間に家を飛び出して、酔っ払いの俺を貴洋くんが秘密基地へ連れてきてくれた、とばかり思っていたんだ」
「珍しいな。大輔が酔っ払うなんて」
「秘密基地に辿り着いた経緯は分からない。これについては、もう分からなくて良いんだ。俺と貴洋くんは、この場所に座ってビールを飲みながら、幼少期の思い出や東京の話をしながら、十年間の空白を埋めていった。以前、健斗には話したけれど、俺と貴洋くんは中学に入学後、心が離れてしまい、大きな空白が空いていた」
「空白・・・」
「そう。でも、その空白は、俺の中での空白であって、貴洋くんの中では、決して空白ではなかった。貴洋くん中では、寧ろ・・・そうだな、豊饒とでも言おうか。豊饒の時間だ。貴洋くんはね、時間があると、ここに来て秘密基地を整備していた。俺との思い出を忘れないように」
「貴洋くんは、純真で良い奴だな。それに比べて、大輔は軽薄な奴だ」
「分かっている。そんなことは、俺にも分かっている。でも、気が付かなかった」
大輔はビールを飲み、鬱積する自分の過ちを濁す。ビールにて過ちを、正せるとは思ってはいないが、吹き出る貴洋への感情を曖昧に取り繕った。
「明け方前、秘密基地を出て貴洋くんとは別れた。これが天草での再会・・・。東京に戻り、トレーニングをしたり、読書をしたりと大学生の夏休みを呑気に過ごしていた。そして事件が起きたのが、昨晩のことだ。ひさびさに酒でも飲もうかと新宿を彷徨っていると、貴洋くんがいた。健斗も遺影を見ただろう? あの優しい表情の貴洋くんが新宿の人混みに揉まれながら立っていた。決して、幽霊ではない」
「ちょっと、寒気がする話だな」
「まあ、今思えば、寒気のする話かも知れないな・・・。俺らは居酒屋に行き、BARに行き、酔っ払って帰宅し俺の家に泊まった。居酒屋の店員も、BARの店員も貴洋くんの姿を見ている。だから、貴洋くんが死んだなんて、誰も思いもしないだろ?」
「貴洋くんの、大輔に会いたい強い気持ちが、幻影、幽霊、いや、この世界に新しい肉体を作ったのだろうか? うーむ、怪奇現象だな」
「でも、残念だが、もう会うことはないだろうな」
「何故?」
「貴洋くんは言ったんだ。『大輔くんは、僕の分も強くなってね』とね。その言葉が、貴洋くんの残した最後の言葉だ。だから、もう会うことはない」
「『僕の分も強くなってね』か。大輔は、何故その言葉が最後だと思うんだ? 死後に貴洋くんと何度も会っているならば、また会えると思うけれど」
「『僕の分も強くなってね』の言葉は、最後の言葉と決まっている。その言葉を残してこの世を去った人を知っている。だから、もう会うことはないだろう。俺はこの言葉と共に生きるつもりだ」
「その言葉を生涯守れるのか?」
「もちろん」
大輔は力強い言葉を吐き、手に持った空のビール缶を握り潰した。
二人は数本のビールを飲み干し、笹の上に寝転がり、天を仰いだ。枕元から伸びるクヌギの木が、玲瓏な星の輝きを淡く和らげ、夜の日向ぼっこに相応しい空間を作っている。窮屈に育つ笹薮を吹く抜ける風が、夏の終わりと秋の始まりをそっと乗せ、秋虫に鳴くようにと急かしている。大輔は思慮に耽る。もう秘密基地へ来ることはないだろう、と。秘密基地は、本来の自然に戻ろうとしている。心の拠り所も、逃げ場も必要がなくなった。貴洋との記憶は、自分の心の秘密基地へ格納され、死ぬまで生き続けるのだろう。もしくは、死んだ後も永久に生き続けるだろう、と。
「何を考えている?」
「未来について。健斗は?」
「俺も、未来について。偶然だな」
「いや、必然さ。秘密基地では、未来のことを考えるのが一般的だからな」
「なあ、俺らはどんな未来が待っていると思う?」
「そうだな。昔は、サッカー選手や宇宙飛行士なんて言っていたけれど、現実的には無理だろうな。サッカー部に入っていないし、理系を専攻していない。未来は拓けているようで、子供の頃のように、無限大ではなくなってしまった」
「俺の昔の思い出は何だっただろう・・・。思い出す事が出来ない。俺の記憶は、遊び過ぎてくすんでしまったようだ。大輔の言う通り、大人になればなるほど、夢や希望は儚く消え、現実のみを食べて生きていくんだろうな。現実って、どんな味がするんだろうなあ。きっと不味いんだろうな」
「ああ、不味そうだな。殆どの大人は、くすんだ瞳で険しい表情をしているもんなあ。あれは、きっと現実を食べ過ぎて、満腹状態なのだろうな。もちろん、吐き出したくても、吐く術を知らない。それで『義』を忘れてしまうわけだ」
大輔が言い終わると、二人は目を合わせて哄笑した。
続く。
花子出版 倉岡
文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。