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雲の影を追いかけて 第3章「前半」全14章
第3章「前半」
珈琲の香りが立ち込める大衆喫茶は、老若男女が入り乱れて賑わっていた。裕と田中は店内の角にあるテーブルに座り、注文した珈琲を一口飲み、密談を始めるようにひっそりと会話を始めた。
「勤務前に時間を作ってもらって、すみません」
「いえいえ、構わないよ。それでね、母さんに聞いたんだ。先ずは、芥川賞の最終選考にノミネートされたことを大絶賛してた。僕が本を渡したら、『読むのが楽しみだ』と言っていたよ。あんなにはしゃいでいた母さんを見たのは、久しぶりだなあ。
おっと、それで今日の本題だね。裕君に紹介出来る結婚相手が、一人いるみたい。パート先の同僚だって」
裕の心情を汲み取ることなく、田中は淡々と話を続けた。裕は、『年の差婚』への困惑を、素直に打ち明けるべきかを日中通して吟味していた。しかし、田中の畳み掛ける言葉の波へ舵を取れず、困惑は易々と押し流されていた。
「その女性は、未婚の五十九歳。温厚な性格で、とても小綺麗だって。父親と二人暮らしで、その父親は介護が必要らしい。パート先での集合写真を、母さんからもらってきたよ。写真を見たいでしょ?」
「はあ」
裕は曖昧な返事をした。すると田中は、鞄から集合写真を一枚取り出しテーブルに置いた。写真は、スーパーの制服を着た従業員が横並びで写り、それぞれの表情や体格まで明瞭だった。田中は写真を指差し、説明を始める。
「えっと、この男性が店長さん。そして、この人が僕の母さんで、その隣の人が、今回紹介をしたい佐々木祥子さん。写真写りが抜群だ。母さんと同じ歳らしいけれど、全然そうは見えないよね。すごく綺麗な人」
裕は写真を手に取り、写る祥子を眺めた。黄色味がかった淡い照明の下、祥子は微笑んでいた。勿論、女優の写真集に比べると見劣りするものがあるが、色白で綺麗な肌は可憐だ。裕の安心が膨らむ。並ぶ他の女性と比べ、若く見える容姿に安心したのだろうか。それとも、田中の好意を台無しに出来ないという、矜持が生む安心だろうか。錯綜する安心の所以は探せないが、『年の差婚』という話題性に欠くことはないだろう、という安心は一層濃くなってゆく。
「とても、綺麗な方ですね。是非お会いしてみたいです」
「それは良かった。早速だけれど、明日の昼間、空いているかな? 僕の家に祥子さんを呼ぶからさ、是非会ってみなよ」
「では、お願いします。でも田中さんは夜勤明けですが、大丈夫ですか?」
「うん。まあ、僕が話す訳じゃないからね。僕は裕君らの取次役だよ」
田中は笑顔を作った。離婚やリストラなどで疲弊する表情の奥に、実直な瞳の輝きがあった。側近の読者であり、側近の理解者、そして話題作りの一役を担っている田中へ、裕は深々と頭を下げ、浮かんだ悩みを絶対に口に出すまいと心に刻んだ。
裕が二人分の料金を払い、二人は喫茶店を後にした。降り続く雨が歩道を濡らし、作られた水溜りに街灯が反射し散光した。二人は水溜りを避けながら歩いた。
「田中さん、牛丼屋までご一緒しますよ」
「悪いねえ。では行こうか。さあ、今日も仕事頑張ろう。裕君は、新作を書いているの?」
「はい。少しずつですが。でも、今は芥川賞のことで頭が一杯で、上手く書けません。筆が乗らないというか。まあ、しばしの我慢ですかね」
「そうだね。一ヶ月は長いようで短いからね。それまでに、伴侶も見つけないといけない訳だ。佐々木祥子さんが素敵な人なら良いね。そして何よりも、芥川賞を受賞出来ると良いね」
「結婚して、もしも受賞を逃すなら、笑い話ですが。まあ、何にせよ、佐々木祥子さんには会ってみたいです」
「うん、是非とも。母さんも喜ぶよ、生粋のお節介焼きだから。夜勤明けに牛丼屋の前で待ち合わせでも良いかな。一緒に僕の家へ行こう」
「了解です」
「夜勤中に母さんと相談し、明日の段取りも決めとくよ」
「色々とありがとうございます」
「うん。応援しているよ。『年の差婚』かあ。僕には無縁の話だね。もう、こんな中年のおっさんだからな」
「田中さんは、田中さんらしくて良いじゃないですか」
「ありがとう。じゃあ、働いてくるよ」
田中は小走りで牛丼屋に消えた。牛丼屋の店内はサラリーマンで賑わい、外まで牛丼の香りが溢れ出しそうだった。
裕は帰宅し、小説を少し書き進め、本を読みながら眠りへ向かった。夢と現実の境で、写真で見た祥子の姿を生々しく想像し、胸が少し熱くなった。寝返りを打ち、祥子の姿を攪拌させた。
第3章「中盤」へ続く。
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