雲の影を追いかけて 第3章「後半」全14章
第3章「後半」
太陽が頭上まで登り、日差しは強かった。祥子は真っ黒い日傘をさし、影に素肌を隠した。裕は顔を動かさず、瞳を懸命に動かし、足元から舐めるように祥子を見入った。瞳に映る祥子は、見れば見るほど還暦間近とは思えない。近年の美容技術向上、食生活の変化、女性の美への求愛、それぞれの貢献者一人一人に頭を下げて回りたくなった。勿論、祥子の努力や、体質、遺伝、ファッションセンス等もあるだろう。いずれにせよ、期待を遥かに超えた女性に戸惑いつつ、夏休みを控えた少年のように高揚した。
「どこへ行きますか?」
祥子は日傘を少し傾け、裕を見た。
「そうね。暑くなりそうなので、河原にでも行きましょうか?」
「わかりました。僕が、いつも行っています河川敷へ行きましょう。きっと、涼しいと思いますよ」
「嬉しい」
祥子は微笑んだ。
街路樹の作る木陰を頭上で感じつつ裕は、祥子の速度に合わせて鷹揚に歩いた。擦れ違う人が無数に居るが、何故か眼に入らない。祥子と歩くためだけに作られた歩道のように思えてきた。
「歩く速度、速くありませんか?」
裕が問いかけると、祥子は首を横に振る。すると、裕の目に、祥子の首元に光る小さな汗が飛び込んできた。夏草に乗る、朝露のように絢爛な輝きを放っていた。唾を飲むと、裕の見窄らしい喉仏が揺れた。
河川敷を歩く人は疎らだった。裕は土手に座りたかったが、祥子の衣服を汚すまいと、ベンチに座った。祥子は日傘を閉じずに、河の流れを眺めた。
「この河原には、仕事の後によく来ます。せせらぎが心地良いのです」
「裕君は、執筆以外にもお仕事されているのですか?」
「はい。未だ未だ、印税や原稿料だけでは暮らせていけませんので、牛丼屋で深夜のアルバイトをしています」
「牛丼。久しく食べてないですね。今度、ご馳走してください」
「僕は長年勤務していますので、牛丼は少々飽きています。今度ご馳走しますね」
「裕君?」
祥子の声色が一段落ちた。
「何でしょう?」
「田中さんから、『お見合い』と聞きまして本日伺ったのですが、こんなおばさんでも良いのでしょうか? 裕君は若いのですから、私より若い女性が放っておかないと思うのですか・・・」
「祥子さんさえ宜しければ、是非お付き合いしたいです」
「裕君は変わった人ですね。いえ、変な、という意味ではなく、面白いという意味ですよ」
「よく変わっていると言われます。ですから、小説なんて書いているのでしょうね」
「裕君、私は現在五十九歳です。もう、子供を産めない身体になっていますし、皺も、白髪も、これからもっと増えていきます。父の介護もしなければなりません。裕君のお荷物にはならないのでしょうか?」
祥子の言葉が、裕の心に優しく突き刺さるものの、話題性を持ちたいとの意思が、実情の棘を引き抜いていった。いや、話題性よりも、祥子の姿をずっと見ていたかった。初恋のような、言葉では表現しがたい淡い感情の萌芽がどこかにあった。
「はい。構いません。どんな祥子さんでも、構いません」
「それは、良かった。折角ですので少しばかり、過去をお話しさせてください。事前に話した方が、お互いの為に良いと思います」
祥子は瞼を閉じ、話を続けた。散らばった繊細記憶を探し、その記憶を掬いながら話す祥子の声は、せせらぎに流されてしまいそうな程の小さかった。
「高校を卒業して、地方の旅館へ就職しました。両親の元を離れて期待と不安だらけでしたが、何とか十年ほど働きました。同僚が結婚して辞めてゆく中、職場の人からお見合いの話を進められることもありましたが、気が向かず、結婚することはありませんでした。
三十歳の頃、病名を忘れましたが、母親は急死しました。訃報を聞いた時、数日間は泣きました。でも、一人っ子の私が何とかしなければと思い、旅館を辞めこの街に帰って来ました。父は家事をしませんので、私が面倒を見ないといけなかったのです。生まれ育った街ですが、十年ぶりに帰ると街の雰囲気はガラリと変わっていました。
そして昨年、父が病気になり介護が必要になりました。派遣で事務の仕事をしていましたが、勤務時間と介護時間の折り合いがつかず、辞めました。現在はスーパーにてパートのお仕事をしています。幸い、父の持ち家ですので、慎ましく何とか生活は出来ています」
話を終えると、祥子は瞼を開けて裕を見た。涙の膜が張った瞳に、初夏の空色が映っていた。
「訃報など、辛い話もお話しして頂きありがとうございます。ほんの少しですが、祥子さんのことを分かったような気がします」
「良かった。裕君のことも聞かせてくれませんか?」
「はい。僕は二人っ子です。五歳上に兄が居まして、実家のことは兄に任せています。そんなこんなで、執筆活動出来ているわけです。両親は、まだまだ元気に働いています。最近は連絡をほとんど取っていません。恐らく元気でしょう。
祥子さんと同様に、僕も未婚です。そして、彼女も居ません。遠い昔に付き合っていた彼女がいましたが、大学の退学と同時に別れました。それからは執筆とアルバイトの日々です。簡単ですが、こんな感じですね」
「ありがとうございます。ご家族がお元気で何よりです」
「それは本当に助かっています。祥子さんのお父さんが早く元気なると良いですね」
「もう歳ですので、元気になるのは難しいと思います。仕方がないことです・・・。それはそうと、裕君が書いた本を読みたいと思いますが、本屋さんに売っていますか?」
「もし、良かったら差し上げますよ。自宅にありますので」
「嬉しい。読書は久しぶりなので新鮮な気分です」
「いまから、家に来ますか?」
「えっ」
祥子は戸惑った声を出した。
「あ、別に深い意味ではなく。単純に本をお渡ししたいと思いまして」
「はい。伺います」
俯く祥子は、小声で返事をした。
アパートの扉を開けると、閉じ込められた熱気が飛び出した。裕は散らかった靴を整え、祥子を招き入れた。素早くカーテンと窓を開け、扇風機を回した。部屋を素早く見渡したが、下賤なものは転がっていない。
「どうぞ、お掛けください」
執筆で使っている椅子を引き、祥子に座るように促した。
「小さなアパートで、すみません。何か飲みますか? と言っても、お茶くらいしかないですが」
「では、お茶をお願いします」
裕はグラスを用意し、水垢や埃がないか光に翳し確認した。グラスは透き通っており、安心してパックに入ったお茶を注ぎ、祥子へ渡した。
「ありがとう。この机で執筆しているのですね。とても不思議な感覚です」
「目の前のパソコンに向かって、日々葛藤していますからね。側から見ると、ちょっと不気味ですよね。そうそう、これです」
裕は『月の雫』の本を祥子へ渡した。祥子は表紙を眺め、ページをめくり始めた。白く細い指が、文字が並ぶページを行き来する。
「ありがとうございます。『月の雫』。とても素敵なタイトルですね。読むのが楽しみです。暫く貸してくださいね。久しぶりの活字ですので、時間がかかると思います」
「もし宜しければ、差し上げますよ。自分で持っていましても、何にもなりませんから」
「嬉しい。ありがとうございます」
祥子は本を胸で握り締め、笑顔を作った。裕は恥ずかしくなり、視線を逸らした。祥子の醸し出す少女のような仕草に恥ずかしさを感じたのだろうか。それとも、まるで実際の少女のように見えてしまっただろうか。様々な思いが錯綜し、裕の頬を赤く染めた。
「裕君。もし良かったら、連絡先を交換しませんか? またお会いしたいです。こんな、おばさんで宜しければ」
「おばさんだなんて、祥子さんは魅力的ですよ。こちらこそ、今後ともよろしくお願い致します」
二人は携帯電話にて連絡先を交換した。
暫く雑談をし、祥子はアパートを後にした。裕は見送りを提案したが、祥子が丁寧に断った。
独りっきりとなったアパートの一室。外は明るく、日が沈むまでは時間があった。椅子に座ると、座面に残る祥子の暖かさを感じ、性欲が堰を切ったように流れ出した。祥子の茹で卵の殻をむいたような純白の首筋。ブラウスを小さく膨らます、掌に収まりそうな乳房の形状。黒く吸い込まれるような瞳。それぞれの部分が、分裂と結合を繰り返し、裕の脳裡へ刷り込まれ、可憐な姿を造形する。勝手な妄想に罪の意識を感じ、机の隅に置いていた本を手に取り、布団に寝っ転がった。そして、本を開き、文字を追った。しかし、文字の上で、裸体で踊る祥子の姿が現れた。仕方なく本を閉じ、携帯電話を握りしめ、祥子へメールを送った。
『本日は、ありがとうございました。また、近日お会いしたいです。空いている日が分かりましたら、返事待っています。今後とも宜しくお願い致します』
携帯電話を枕元に置き、昼寝をしようと瞼を閉じた。
目が覚めた頃、日が暮れていた。裕はすぐさま枕元の携帯電話を開き、祥子からの返信の有無を確認した。すると律儀な文で、今日のお礼、次回の空き日が記載されていた。直ぐに、空き日にお会いしたい、との返事を返した。布団を跳ね除けて立ち上がった。立ち上がると、溢れ出していた性欲が霧消し、深く安堵した。
時計を見ると、二十一時前を指していた。昼寝にて軽くなった身体を優雅に動かし、牛丼屋の制服、本、携帯電話のいつものセットを鞄に放り込んでアパートを出た。
裕が牛丼屋の扉を開けると、田中の声が鳴り響く。
「いらっしゃいませ。裕君か。今日はどうも」
「こちらこそ。ありがとうございました」
裕はいつものように着替え、仕事を始めた。牛肉の肉鍋に浮かぶ掬い残した油も、客の食べ残したご飯粒も気にならない。幸福感と寛容の因果関係を分析してみると面白うだろうな、と客観視しながら、張り切った声を出して懸命に働いた。
忙しい時間が去り、裕と田中は椅子に座り会話を始めた。
「祥子さんとはどうだった?」
「連絡先を交換して、次回お会いすることになりました。田中さん、色々ありがとうございました」
「おー。それは良かった。安心したよ。『年の差婚』へ大きく前進したね。素晴らしい」
「はい。祥子さんなら、結婚してもいいかなと思います。上手く言い表せないのですが」
「へー。小説家としての直感かな。うんうん、実に面白い。大きな話題づくりになると思うよ」
「話題作り・・・。確かに大きな話題になるかも知れないです」
「あれ、話題作りで結婚するのが、本来の目的じゃなかったのかな?」
田中は神妙な表情を作り、裕の顔を覗き込んだ。裕は腕組みをして、思慮に耽る。話題作りが本来の目的だったが、祥子の瞳を見ていると違った思いが募ってきた。愚劣感情から逃避することで、意図的に高尚な感情を急追するものではなく、例えるなら、逍遥時に梅の開花を見つけ、自然とほころんでしまうような感情に近かった。
「話題作りの一つですね。はい」
田中を心配させまいと、裕は偽りを述べた。
「そうだよね。話題性を持つための『年の差婚』だからね。劣化の激しい女性と結婚して同棲するのは、若い裕君には、もったいないよ」
「ええ。そうですね」
回答を濁した。
裕は感情を饒舌に話せないため、小説を書いていた。会話の際、吐きたい言葉が浮かぶものの、何故か消えてしまうのだ。人と話すと、やきもきすることが多々ある。今と同じように。
二人は普段通りの仕事をし、夜勤を終えた。裕の牛丼を盛る腕前が、若干成長したのかも知れない。
第4章 「前半」へ続く。
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