中卒だった頃の自分、今の自分④
こんにちは、ハナチェンコです。④です。
4.大学に受かるもまたやらかす
1989年(平成元年)に22歳でようやく、の巻
数学の勉強は楽しかったのですが、自分が周囲と軋轢を産んでしまう、その理由を教えてくれそうにはありませんでした。ただ予備校で教わった現代文は何らかのヒントを与えてくれそうな気がしていました。
そこで一気に文転しました。ただ現代文(の問題になっている思想家や評論家など)に魅力を感じたからといって、どこかの大学に文学部に進んでふつうに4年間大学生活を過ごせるとは思いませんでした。高校を2度も辞めているので、そりゃそうだわ、という自覚はさすがにありました。
どうしよう...と思って買い求めたのが『全国大学受験年鑑』のような、全国の全ての大学の情報が掲載されている本でした。
何をやったかというと、「俺でも行ける自由な大学はあるのか」という事でした。『年鑑』を片っぱしから調べました。
ひとつだけあったのです。東京のある私立大学でした。案内文には「門も塀もない大学」「入学式もない」などと書かれてあり、「ここじゃん!」と心躍ったのを覚えています。しかもその大学には(当時)人文学部の中に「芸術学科」がありました。入試科目は英数国から2科目とデッサンの実技、そして面接でした。一般入試に面接があるのって面白いですよね。
「芸術学科」の響きにクラッときてしまいw、すぐにデッサンの勉強を始めました。私は元々いわゆる「画伯」並みの画力しか持っていなかったのですが、またここでも謎の「できるってw」という自信がもたげ、がむしゃらにデッサンをし続けました(「画伯」レベルなのに独学で...)。
1989年冬、ちょうど昭和から平成に変わる頃でした。芸術学科に受験申し込みをして自宅でデッサンを勉強していると、こんなニュースを目にしました。元号が平成になって2週間ぐらい経った頃、入試1ヶ月前ぐらいの時です。22歳になっていました。
俺が今度受ける大学やん!なにこれ...めちゃくちゃ自由だわ...ここに絶対行く!
ただ当時、この大学の芸術学科は偏差値50ぐらいなのに、名目倍率が35倍という意味不明な様相を呈していました。いくら「名目」倍率と言っても高すぎです。
俺みたいなのが大挙して受験するんかな?
などと思いつつ受験しました。英語と数学はまずまずの出来でした。問題はデッサンです。受験生に馬鈴薯と麻布とが配られ
馬鈴薯と麻布を自由に構成して鉛筆でデッサンを描いてください。
と説明がありました。「自由だな、絶対だな」と、私は馬鈴薯を立て(普通立ちませんがw)、手巻き寿司の海苔みたいにぐるぐるまきになった麻布がその馬鈴薯を突き刺して貫通しているデッサンを描きました。まあ普通ならありえない光景です。デッサン自体は全受験生の中で1,2を争う下手さだったと思います。完成後、周囲を見渡して思ったのだから間違いありません。なので一か八かの奇策に打って出たのでした。
面接では今までの自分の「周囲との軋轢」を喋りまくりました。逆効果でしかないということもわからなかった当時の自分の面目躍如、文字通りバカ丸出しでした。なのに柔和な顔で「そう、そう」と面接の先生が真剣に聞いてくれました(大きな教室に、面接官の先生と受験生が1対1で同時に面接する形式でした)。
なんと受かっていました。ちなみに入学後仲良くなった同じ学科の人は「僕はデッサンの試験で詩を書いたよ。絵は描かなかった」と言ってました。それで通った訳です。なんだかすごいです。兎にも角にも期待の斜め上を行く「自由さ」でした。
住むところを見つけるのに一苦労
初めて実家を離れて東京で一人暮らしを始めることになりました。22歳にしてようやく人生うまく行き始めた気がしました。まず大学斡旋のアパートをピックアップし、いくつか回りました。
驚いたのは最初に回ったアパートの大家さんが私を見るなり「こちらからお断りすることもありますのでご了承ください」と言ってきたことでした。ロン毛のままだったからかなぁ...。よく分かりませんが当時は「東京ってこんな所なのかな」などと思っていました。
最終的に、小田急線沿線(というかベランダ出たらすぐ線路、みたいな)の築25年ぐらいのアパートに決めました。朝から深夜まで電車の音がすごかったです。まあでも贅沢は言っていられません。なにより「やっと自分の居場所ができそう!」とワクワクしていました。家族にあれだけ迷惑をかけそれを許してもらっていたのに、そして自分でももちろんその事はわかっていたのに、同時に「誰にも干渉されたくない!一人で暮らしたい!」などと強く思っていた当時のバカな私なのでした。
入学はしたが授業には出ず、また「やりたいこと」放題
この大学、今はほんとキチンとした大学になっていますが(大学院の後輩が今教員としておられます)、私が入学した平成元年当時は通学路の途中にライオットシールドを持った機動隊2人と、その横に機動隊員が乗っている人員輸送車が常駐していました。◯◯派とか、いろいろいらっしゃっていたんですね。
学生数3000人ぐらいの規模の大学だったのですが、当時サークルが300ぐらいあり(!)、部室が充てがわれていないサークルの一部は学内に勝手にプレハブ(「自力更生部室」と呼ばれていました)を建てていました。数えただけで8つはありました。大学のグラウンドの一部をこれまた勝手に畑にしている学生もいました。「学食などいらない!自分の飯は自分で作る!」と学内で飯ごう炊さんをしている学生の集団もいました。「朝から酒を飲む研究会」なるものもありました。毎日のように外廊下で学生によるフリーマーケットが開催されていました。軽音部によるバンド演奏(クソうまかったです)も授業中だろうがおかまいなしに構内で行われていました。しまいには自治会は(自主規制)無線を傍受していました。この辺り、書き始めたら止まらなくなるのでこの辺でやめときます。とにかく今ではありえない、超自由で超個性的な大学でした。
これは今他の大学でもあるのかどうか知りませんが、午後3時ぐらいになると、学食が缶ビールとおつまみ(ポテトフライとか)を売ってました。毎日です。すみません、今はほんとうにいい大学になっているので(昔がそうでなかった訳ではないのですが)もうやめときます。
で、私はと言えば、せっかく芸術学科に入れたのですからその方面で努力すればいいものを、入学して1ヶ月後にはまったく授業にも出ず、また例の「やりたいこと」に熱中していました。授業がつまらなかった訳ではなく「もっと楽しそうな事」があったという感じです。大学には毎日行っていました。
いろいろやりましたが、一つ紹介します。学内に「学力不振・不登校の小中学生専門塾」の講師バイト募集があったんです。そこに応募してバイトしていました。そんなに長期間ではありませんでしたが。
最初は小学6年生の男の子と中学2年の女の子の担当になりました。
小6の男の子は、隣の家の犬に石をぶつけたりしてまず塾(民家を借りていました)の中に入ってこようとしません。なだめすかして中に入れ、簡単な計算問題をやりました。最初の問題に正解したので次の問題を出そうとすると
またおなじのやる
と言って聞きません。仕方なくまた同じ問題をやりました。これが延々続きました。進むごとに
もっと大きなマルたくさん書いて!
と懇願してきました。その通りにしてあげるとすごく嬉しそうな顔をしていました。
しばらくしてお父さんが迎えにきました。
テストの点数よかった?
とだけ聞きつつ帰っていました。自分の子どもの問題に全く気付いていないか、そこを避けて通っている感じでした。なんだかいろいろ感じてしまい、どっと疲れました。
中2の女の子はとてもおとなしくかつ感じも良く一見何も問題なさそうだったのですが、勉強が極端にできないとのことだったので、その中でも「特にできない」という数学について、まず教科書を持って来てもらいました。初めに「三角形の合同条件」を復習しました。以下がその条件です。
1 . 3組の辺が全て同じ長さ
2 . 2組の辺とその間の角がそれぞれ等しい
3 . 1組の辺と両端の角がぞれぞれ等しい
ところが何度説明しても「そんなことはない」と譲りません。三角形は合同にはならない、と言い張るのです。
そこで教科書の以下の図を真ん中で折って折り重ね、
ほら、三角形がきれいに重なってるでしょ?これが「合同」
と説明しました。
ところがこの生徒はこう返しました。
"A"と"D"は形が違うから重ならないし、それは"B"と"E"、"C"と"F"も同じこと。だから合同ではない。2つの三角形は別のもの。
ちょっと虚をつかれた感じでしばらく黙ってしまいました。もちろんAからFはそれぞれの頂点の記号にすぎません。でもだからといってこれら文字を取り去ってしまえば、2つの三角形がそもそも別のものだという説明がちょっと難しくなります。右の三角形は左の三角形の影かもしれませんし、真ん中で紙を折り返して一方を他方に書き写したただけかもしれません。
うまいこと彼女に説明できる方法があったのかも知れませんが、それよりも、こういうところでつまずく子がいるんだ、という事実に驚きました。幾分中学生時代の自分に重なる所もありました。当時よく親や先生に言われていた
お前はなんで人と同じように「普通に」できないのか?
です。どこか「かつての自分」を見せられている気がしてなりませんでした。
1年次の取得単位がなんと...
こんな感じで「やるべきこと」を放ったらかし、無計画に自分のやりたいことをその都度やる日々でした。もうひとつだけ紹介しますね。
最寄駅から大学までスクールバスが通っていたのですが、これが1回10円取るんです。11回分100円のチケットを買えば少しオトクになります。
今だったらおとなしくチケットを買って乗りますが、当時の私はこれが「許せなかった」のです。「学費を払っているのにスクールバス代も取るんかい!」ということです。
思い立ったら吉日、すぐに行動に移しました。「みんなタダで乗ろうぜスクールバス!」ポスターを作り学内に何枚も貼りました。効果はかなりあって、無賃乗車が相次いでしまいました。
「匿名でポスター貼るのは卑怯だ」とばかり、ポスターには学籍番号と氏名に加え電話番号まで書いていたので、すぐに大学から呼び出しの電話がありました。そこで私が返した言葉はこれでした:
課長級以上の人とじゃないとお話できません
そんなこんなで、気がついたら1年次終了時の取得単位はなんとゼロでした。他にもちょっとここには書きづらい事もいろいろやってしまい、最終的に体調を崩してしまって実家に帰ることとなりました。
1990年春、23歳、大学を辞めて実家で先が見えない毎日を送る
実家に帰りしばらくしてまた上京し、今度はきちんと授業もきちんと受けるべく頑張ってみた(当人比)なのですが、ムリでした。思い切ってアパートを引き払い、完全に実家に帰りました。
大学も退学しました。退学する際、「担任」の先生に電話でその旨連絡しないといけなかったのですが(本当は面談するのですが既に実家に帰ってきているので)、ろくに授業にも出ていない自分が後ろめたく、また大学の先生という存在が得体知れずなんか怖くて「怒鳴られたりせんかな?」と嫌で嫌で、無責任にも姉に「先生に電話して『退学します』って伝えといて」と頼みバックレてしまいました。姉様その時はマジすまんかった。
ということで、この時点で
7年ぶり3回目の退学
になりました。さながら高校野球の強豪校です。いや冗談ではなく本当に詰みました。しかも学歴上もまた中卒の状態に戻ってしまいました。既に24歳になっていました。中学時代の同級生は大学を卒業し、就職して3年目になろうとする頃です。しかも時はバブル景気の真っ只中でした。
...毎回超長くてほんとすみません。次回は「2度目の大学入学」から始めたいと思います。ようやく明るい光が見え始める感じです。