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中卒だった頃の自分、今の自分②

こんにちは、ハナチェンコです。前回は初note投稿でしたが思いのほか長くなってしまいました。早速前回の続きです。またまた超長くて誰が読むんだという話ですが始めたからにはとりあえず進めます。

2.中卒時代(1)

奇跡的に...

中3の担任の先生には高校進学を危ぶまれましたが、そして自分でも薄々ラ・サールや久留米大附設は難しそうだと感じ始めていましたが(薄々かい)、高校に行けないはずはないと信じていた私は、校区内で一番の県立進学校と、あと「滑り止め」に私立の男子校を受けました。

ここで「滑り止め」というのはあくまで「主観」で、周囲は一様に「滑り落ちる」と信じて疑いませんでした。

県立進学校の方は当然落ちました。受かるわけがありません。

ただ自称「滑り止め」の私立男子校はなぜか受かってしまいました。1982年春、15歳の時です。自惚れていた当時の自分は「実力で受かった」と思い込んでいましたが、それにしては試験の出来は散々でした。得意のはずの数学も大した出来ではなかった気がします。

入学式の日にわかったのですが、試験(だけ)で受かった訳ではありませんでした。その証拠に入学式の後に陸上部の監督に呼び出されました。曰く、

君は特待生にはなれなかったけど、準特待生みたいな感じでギリギリひっかかった。ただスパイクやその他用具のお金は負担してあげるから頑張って。

陸上競技(短距離)の成績で取ってもらっていたのでした。ただこの高校に陸上競技の特待生で行くためには全国大会には行けていなければ話になりません。私はと言えば県大会の決勝止まりでした。まさに「おこぼれ」で拾っていただいたのでした。特待生を急遽キャンセルした受験生がいたのかな?その繰り上げ当選みたいな。

ところで当日、別の先生にも呼び出されました。教頭先生でした。自分の中では「滑り止め」だった高校、しかも女子がいない男子校なんて行きたいはずもなく、ふてくされて唾を吐いたら教頭先生の靴に引っかかってしまったのでした。すごい運です。悪い方の。

いろいろあった入学式でしたが、なんとか高校に入学する事ができました。

高校に行きたくない

ただ陸上部はわずか1日で辞めてしまいました。この高校にも10日間ぐらいしか行きませんでした。なんというか全体的にソリが合わなかったのです。陸上部の練習場所だった市内の陸上競技場の管理人に中学時代からなぜか目をつけられていたというのもありました(ちなみにこれは冤罪です)。

陸上部を辞めた事で高校に居づらくなったというのも退学の一因です。当時の陸上部のコーチは体育教師で、私のクラスの体育の担当でした。陸上部に入った時は「ハナチェンコ君」と「君付け」だったのが、陸上部を1日で辞めた翌日から「ハナチェンコ」と呼び捨てに変わりました。実にわかりやすい変化でした。

授業も楽しくはなかったです。私の見た目が悪かったからなのか、例えば教科書を忘れた隣の席の奴に教科書を見せていたら「なぜ教科書を持ってこない!」と竹の棒が折れるまで、なぜか私の方が叩かれたりしていました。「違います!」と弁解しても無視、まさに問答無用です。中学の先生に殴られた時は「悪いのは俺だもんな」と何の恨みももちませんでしたが、この時は頭に血が上りました。仕返しはしませんでしたが。

ついでに後ろの席の奴から入学早々メンチを切られてケンカになったこともありました。なんだかもう散々でした。ちなみに横の席の奴とは多少仲良くなりましたが、なんと2歳年上でした。筋金入りのヤンキーで、関東の高校から「飛ばされて」来ていました。でもいい奴でした笑。

とにかく何もかもが嫌で、1学期を以て退学しました。好きだった陸上への情熱も完全に失せていました。

熱中できるものが見つかる

話は前後しますが、中2の冬休みに友達とヤマハのドラム教室に週1回3ヶ月間通い、ドラムって楽しいなぁ、と思うようになっていました。先生がとても面白い人で行くのが楽しかったからというのもあります。教室が終わってからもファミレスに連れて行ってくれてジュースを奢ってくれたりしました。いい先生でした。ちなみにこの先生はいまプロギタリストとして、超大御所シンガー(元オフコースの小田和正さん)のサポートメンバーとしてご活躍です。この方も当時はまだ20歳ぐらいで、「優しく面白いお兄さん」的な感じでした。

高校を辞めて何しようかと思っていた私ですが、ドラムという「好きなもの」があったのは幸運でした。ただ、あとさき見ない性格だったので、まだ初心者なのにヤマハの教室横に貼ってある「バンドメンバー募集」の張り紙を見ては電話をし、「メンバーに入れてください」などとやっていました。無謀すぎます。

当然多くは断られましたが、ひとつ「じゃあこの課題曲をコピーしてきて」と返事してくれたバンドがありました。市内の大学3,4年生のバンドでした。それはもう必死でコピーしました。当時はバンド譜、特にドラム譜などあまりない時代なので、慣れない耳コピを繰り返しました。LOUDNESSの"Burning Love"という曲でした。

「ヘタだけど若いし入れてやろうか?」とそのバンドにお情けで入れてもらうことになりました。そのバンドでは何度かライブを行いました。クビにならないように必死に練習したのを思い出します。

今でも思い出すのが、「まつり天神」という市内の繁華街内で行われたイベントで演奏をした際、客席の最前列に母親が座っていたという事です。やはり心配でならなかったのでしょうし、「ひょっとしたらなんとかなるかも」という、親ならではの淡い期待も多少あったのだと思います。

で、最近知ったのですが、この時「共演」した3人組の女性アイドルグループ『きゃんきゃん』(当時は地元アイドルなど存在しなかったので、もちろんメジャーアイドルです。ただそんなに売れていませんでした)は、今をときめくSnow Manの佐久間大介くんとSixTONESの京本大我くんのお母さんがメンバーだったのでした。


高校を再受験したものの...

この頃ずっと実家に住んでいたのですが、当然親は心配します。そもそも(落ちた)県立の進学校の校区だから、という理由もあって小学生の時に引っ越してきたアパートだった訳です。まさに「忸怩たる気分」だったでしょう。

当然の如く「来年高校受けて」と言われました。

私も中卒のままじゃ不安だし、とある公立高校を受けました。

落ちました。

試験はほぼ完璧にできていたはずなのですが、なぜか落ちてしまいました。中学浪人というのが不利に働いたのかも知れません。

それなりに落ち込んだふりをしていると、数日後中学3年の時の担任の先生(グーで8発先生)にわざわざ自宅にお越しいただき「私立高校の2次募集があるから受けてみなさい、内申点は(自主規制)するから」と言われ、もうほんと嫌々受けました。だって男子校だったからです。もう男子校はこりごりでした。

試験が始まってもふてくされて最初の科目(国語)では寝て白紙で出しましたが、熟睡してしまい目が冴えて、次の科目(数学)では普通に解いてしまいました。

受かってしまいました。科目の順序が逆だったら落ちていたと思います。

入学式には行きました。1983年春、16歳になっていました。「には」というのはそれで辞めてしまったからです。もちろんすんなりと辞められたわけではなく、3回、親と共に会議室に呼び出されました。担任になるはずの先生と教頭先生がいらっしゃいました。

頑として「行かないです」と言う私に、担任になるはずの先生が3回目の話し合いで「もうわかったから、辞めていいから、最後になぜそんなに行きたくないか教えてくれるかな?」と聞いてきました。

私「本当のことを言ってもいいですか?」
先生「もちろん」
私「女子がいないから」

先生の顔は引きつっていました。親がいなかったら殴られていたかも知れません。だってそこは男子校だったのですから。

高校を2度辞めてしまった時点で親はもう「高校に行きなさい」とは言わなくなりました。その代わり「昼間はあまり外に出ないで」と言われるようになりました。ご近所さんの絶好の話の種になるからです。ただ私は当時から完全な夜型人間だったので、特に不満もなくその通りにしていました。

1983年、17歳ニートロン毛野郎の爆誕

バンド活動は続けました。その後、別の大学生たちがやっているバンドに入り、活動を続けました。

ジャンル的にはハードロックです。ハードロックと言えば長髪です。まだ「ロン毛」などという言葉すらない時代です。高校に行っていない訳ですから髪の毛も伸ばし放題にしていました。自分としては「ハードロックやってる人の長髪」でした。

ただ周囲からはそうは見られませんでした。当時ロン毛の男性はあまりいなかったのと、私は背が高くない(165cm)のでよく女性に間違われました。深夜よくナンパもされました。男性だとわかって逆ギレされたこともありました。

ある時バンドの練習が終わり、メンバーと別れて地下街を歩いていたら、突然こう言われました。

ここは俺たちの場所やけん、お前は別のところで寝ろ!

ホームレスの男性でした。私は新入りホームレスだと思われたのでした。

「なんだかなぁ」と思い帰宅しました。

深夜になってコンビニにポテチなんかを買いに行っていると警官に呼び止められる事もありました。時は1980年代前半です。今だったらそんなことはないと思いますが、当時は見るからに不審者だったのでしょう。呼び止められいろいろ尋問されました。

警官「君いくつなの?」
私「17歳です」
警官「そんな髪して、高校で怒られないのか?」
私「高校行ってません」
警官「は?仕事は?」
私「たまにバイトとか」
警官「親御さん泣いてるぞ」
私は「いや今寝てます」
警官「そういう事じゃない!」

これ、創作ではなく実際のやりとりです。ちなみにこの警官には後日リベンジしました。同じく深夜に派出所をカラにして近所の朝5時までやってるお店で食事していたのをガラス越しに外から発見し、お店にちょっとだけ入り大声で「あ!サボってる!派出所カラにしてなにやってるんですか!」て笑。

バイトしようかな。あっ...

うちの親は「出ていけ!」とは言いませんでしたのでズルズル家に居させてもらいましたが、バイトぐらいやらないとなぁ、と探しました。

が、ありませんでした。中卒だからではありません。ロン毛が邪魔したのでした。今から40年前の話です。アルバイトニュースを見ても「男性の長髪不可」などと書かれていたり、中には「ロック不可」などという、日本語不明&意味明瞭な断り書きもありました。髪を切ればいいのですが、当時の私にとって「この髪は命」でした。バイトのために切るなどとは全く考えられませんでした。

今はハゲ散らかっていますが笑。

結果的に、自分たちがふだん練習している24時間営業のスタジオでバイトをさせてもらうことになりました。

時給は400円でした。安っす!と思うかも知れませんが当時の私の居住地の最低賃金は395円だったので、これだけ見ると別に悪くはありません。

ただ深夜のバイトだったのです。なので法律上最低賃金の125%は払わないといけなかったのですが、395x1.25=493.75なので最低賃金に100円近く足りず、従って明らかに違法です。加えて深夜労働です。当時私は18歳未満でしたのでこれも違法になります。ただ当時は知識もなく(そもそもまだネットがないのでググりようがない)、ありがたくバイトさせてもらっていました。認めて欲しくて、頼まれもしない掃除なども勝手にやっていました。一番エグかったのは、電源が入っていない冷蔵庫の中に数ヶ月放置された魚を捨てることでした_| ̄|○、;'.・ オェェェェェ。

このバイト代が、ある時一気に減らされてしまった事があり、当時めっちゃ腹が立ちました。スタジオはビルの4階にあったのですが、他のテナントは夜に全部人がいなくなるので、私はバイトの際にビル全体の鍵も渡されていました。17歳のニートロン毛野郎にビル全体を任せる訳です。また中にはスタジオ代を払わずバックレようとする連中もいたりして1人では不安だったので、ある日スタジオの経営者に「(当時のバンドメンバーと)2人で入ってもいいですか?」と頼み快諾を得ました。

バイト代支給の日がやってきました。なんと1人分しかくれませんでした。要するに「2人で入ってもいいよ(ト書き:だけどバイト代は1人分しか出せないから)」という事だったのです。ここのスタッフさん達はまだ若く、いろいろと相談なんかにも乗ってくれたりした事もあり別に恨んだりはおらず、むしろ感謝しているのですが、タダでの「バイト(結構大規模なライブの設営)」を急に電話で頼んできたり、で、断ったら逆ギレされたりした事もあったりして、当時はなかなか複雑な心境でした。

「俺みたいなのは、相手も無意識のうちにこういう扱いするんだよな」と思い知りました。

そのほかはバンドのメンバー(大学生)が持ってきてくれた単発バイトを時々やっていました。

大きいスーパー(ダイエー)入り口で「新春ちびっこ餅つき大会」の餅つきをメンバーとやった事もありました。ただみんなロン毛や金髪だったのでちびっこは怖がって寄り付きませんでした。杵でつく3人のリズムが妙に良かったのを覚えています。

駅前の新築ビルの最上階で簡易イスをただただ組み立てるバイトもやりました。途中社員らしき人に「こっち来て手伝って!」と言われ行くと、マジックで太く「現金」と書かれた段ボール箱が大量にあり、それを窓のない部屋に運べと言われやりました。

みなさん知ってますか。(たぶん)お金が詰まったダンボールってめちゃくちゃ重いです。死ぬかと思いました。ちなみにこの会社の親会社は後日とんでもない事件に巻き込まれてしまいます。詳細は避けますが、その顛末は映画にもなりました。その会社は今はもうありません。

「病院に行こうか」

そんな「日常」を送っていた私は当然の如く親に心配され続けました。ある日「あんたちょっとおかしいかも知れんけん病院に行こう」と言われました。さすがに自分でも「俺ってなんか変かも」と思っていたので、すぐ病院に行きました。精神病院です。テレビや新聞などで有名な院長がいる病院を選び、行きました。

まず私が診断を受けました。診断は10分もかかりませんでした。

先生「君は今何をやっているの?」
私「高校を辞めてバンドやってます」
先生「バンドでプロになれると思いますか?」
私「はい、なれると思います」

今思えば単なる「厨二病」のノリで言ってしまっただけですが、次に母親が呼ばれ待合室で待っていると、しばらくして、目に涙を溜めて出てきました。見ると手には「入院案内」のパンフレットを持っていました。どうやら私は妄想の症状を呈していると「診断」されたようでした。焦った私は

もう一ヶ所いかん?そこでも同じように言われたら入院するけん

と母に懇願し、別の病院に行きました。当時テレビドラマ(○八先生)でも取り上げられた有名な思春期内科の病院で、何と待合室にはテレビ局がカメラ構えて入り込んでいました。来院している人に(勝手に)インタビューもしていました。今ではあり得ない状況です。

偶然院長先生に診断を受けました。前の病院と同じように受け答えしていると先生が怒り出し

もういい、終わり!君は単なる怠け者!初診料もいらんから帰って!

と突き放されました。本当に初診料はなしで済みました。当時は「なんなんこの医者」と怒っていましたが、たぶんわざと言ってくれたのだと思います。とにもかくにもこれで入院の憂き目は避けることができました。

中卒のままじゃヤバいかも

そんなこんなでちょこちょこバイトしつつスタジオに通いライブをし、という日々でした。髪の毛はどんどん伸びて肩にかかるようになっていました。「結婚しようよ」か(わかる人だけわかってください)。

ただ、さすがに私も「このままじゃ先に進めない」と思い始めるようになりました。バンドのメンバーは今でも付き合いがあるいい人たちでしたが、彼らは大学生、私はニート。そしてこのままプロになれるかと言うとどうやら無理っぽい。

高卒の資格を取って大学に行こうかな、と思い始めました。となるとこのままバンド活動してはいられない、という事でバンドは辞めて勉強を開始しました。

高卒の資格、今は「高認(高等学校卒業程度認定試験)」と言いますが、当時は「大検(大学入学資格検定試験)」といい、今と違い科目も10科目以上ありました。これら全部に合格しないと高卒資格はもらえない、従って大学受験すらできない、という事になります。少し震えました。

また超長くなりました。すみません。次回は大検合格から大学入学直前までのあたりをお話しします。「一体誰が見てるんだ」という話はありますが、気楽に続けます。ここまで読んでいただいた方がもしいらっしゃったら、本当にありがとうございました。


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