中卒だった頃の自分、今の自分⑥
6. 大学卒業〜大学院入学
こんにちは、ハナチェンコです。最初書き始めた時はこんなに長くなるとは思いもしませんでした。これでもかなりはしょって書いてるのですが...
ということで、⑥です。
図書館LOVE
大学生活は基本ぼっちだったのですが、授業は面白いし、かなり充実していました。図書館もよく利用しました。1人で落ち着いて勉強できるし、蔵書は多いし、でいいことづくめでした。
クラスメイト(「自主ゼミに参加しようかな」と言ってくれたあの子です笑)に振られた時も迷わず図書館に向かいました。そして稀覯書として蔵書してあったデカルトの『方法序説』の原書"Discours de la méthode"の初版本(1637年刊)を「閲覧したいのでよろしくおねがいします」と申し出ました。
司書の方は怪訝な表情で「学生でしょ?必要あるの?」と聞いてきたので「学生でも申し込めば見せてくれるルールですよね?お願いします」と返しました。
「分かったから、ちょっと待ってて」とごっつい鍵を持って奥に消えていきました。程なく本を持って来られましたが「稀覯書なのでカウンターの中で見て」と言われました。
あの時の感動は今でも忘れられません。1000万は下らない価格で大学が買った、正真正銘の稀覯書です。持つ手が震えました。元々はペーパーバックだったのですが、上から分厚いワインレッドのようなカラーの皮で全面を保護されていました。なんと小口も、です。
なんで初版本見たいの?フランス語版の全集なら閉架書庫から借りられるでしょ?
と、至極当然の質問をされました。まさか「振られて落ち込んだ気持ちを建てなおすためです」とは言えなかったので、
別に理由はないですが、ワクワクしたかったからです
みたいに答えました。司書さんの表情はこわばっていました。すみませんでした。
...無駄話が過ぎました。話を戻します。
大学院を受けようとするも...
1993年秋、大学3年の後期(27歳なりたて)になると就活も迫ってきます。ただ私は就活をやる気は全くありませんでした。最初から「会社員になる」という選択肢がなかったからです。そもそも務まるはずがありません。まずスーツが無理です。いまでもスーツは入学式と卒業式でしか着ません。入試業務でもジャケットです。今の勤務先に赴任して最初の入試業務の際もジーンズにトレーナー姿で行って副学長に叱られ、副学長のジャケットをお借りしました(面接官だったのでジーンズは机に隠れて見えず、履いたままやりました)。
もちろん「起業する」などという大胆な発想も持っていませんでした。起業する前から倒産するに決まってます(意味不明)。
当時は社会学のゼミに入っていた訳ですが、哲学や臨床心理学などにも興味があったので、ぼんやりと「大学院に行って好きな学問を続けたいなぁ」と思い始めました。
そこでゼミの先生に「僕、大学院を受けようと思うんですけど」と相談してみました。すると先生曰く、
うん知ってる
と返してきたので、
え?今初めて言ったんですが?
と言い返すと、先生は
あのなぁ、君は今いくつ?
と。
27になりました!😊
と答えると、先生はこうおっしゃいました。
その歳で就職できると思う?新卒扱いされると思う?加えてその性格で...
ここまで言われて初めて
ハッ!そうか!
と気づきました。もはや大学院に行くしか道は残されていなかったのでした。
すると先生は加えて私にこうおっしゃいました。
うちの大学に君が行きたいような分野の大学院はないよ。市内の大学院だったらQ大しかないよ。ガンバ!(`・∀・´)
...道は険しいのでした。
社会学の大学院に行こうと(ようやく)決める
1994年春、大学も4年(年齢も27でしたが笑)になると、さすがに「大学院に行きたいなぁ」だけでは済まなくなってきました。まず行きたい分野を決めないと始まりません。
いつものごとく図書館でいろんな本を見ていたら、この本を見つけました。
(リンク先のやつは1999年刊行の増補新版で、私が図書館で手に取ったのは1988年刊の同書初版でした)
かつて好きだった数学みたいな内容で、なんか面白いなー、と一気に読み進めました。驚いたのが、これは社会学の分野での博士論文を書籍化したとのことでした。
社会学ってマジでなんでもありなんや...
と、学問的な自由度の大きさに感激し、よし、大学院は社会学で受けよう、と決めました。この「動機付け」があとでいろいろと物議を醸してしまうのですが、とりあえずここでは割愛します(汗)。
険しい院試の道のり
親に相談すると、2つ目の大学を受けるときを同じ事を言われました。つまり
自宅から通える大学院受けて受かれば通わせてやる。落ちたらもう(以下略)。
社会学の大学院で自宅から通えるのはQ大しかありませんでした。当時はまだインターネット普及前で、大学院公式Web Siteで募集要項などを手軽に読む、なんてことはできない時代です。まずは郵送で募集要項を取り寄せました。確かそこに書いてあったと思うのですが、
過去問は研究科事務室で閲覧できます。コピーは取れません
との事でした。書店に行けば東大等、いくつかの有名大学の過去問は売っていましたが、Q大のものは売っていませんでした。以前書いた5歳年上の先生からは「これ参考になれば」と、先生がご修了された大学院の過去問をいただきましたが、他大学のものだったので、やはり過去問を見に行かないとな、と事前に事務室に電話して見に行きました。
構内に入るだけで「もう俺Q大院生やな」とか勝手に思っていました。相変わらずのムードに弱いバカ丸出しです。ちなみにこの頃、繁華街でアンケートのお願いをされたのですが、学校名を聞かれた際、迷わず「Q大の大学院です(キリッ)」と答えていました。もうね。
事務室に入り、過去問を見せていただきました。「第2外国語はどれを見ますか?」と聞かれたので「フランス語をお願いします」と言い、過去5年分の専門科目(社会学)、英語、フランス語の問題を見せてもらいました。
ここで「見終わりました。ありがとうございました」とすんなり帰宅するのはなんかもったいないな、と思い、
コピーはダメでも手で書き写すのはいいですよね?
と聞きました。「書き写すんですか?」と怪訝な顔をされましたが、ありがたいことに「いいですよ」と許可していただきました。
このnoteもそうですが、書き写し出したら止まらなくなってしまい、結局過去5年分の専門問題、英語問題、フランス語の問題を全部書き写してしまいました。何時間かかったかわかりませんが、事務室が閉まる午後5時までにはなんとかすべて書き写しました。事務室の方はさぞ迷惑だったと思います。
ただこのおかげで自宅でじっくり傾向分析を行うことができました。外国語2科目は傍線部和訳か全訳問題のみで、レベル的にもそんなに難しくなく、専門科目も基本的な問題が多くて「これは勝てるかも」と自信を持ちました。
あとは試験勉強あるのみです。卒論も提出する必要があるし、研究計画書も書かないといけませんが、まずは筆記試験で合格ラインに到達しないと話になりません。聞くところによると、外国語2科目の試験で得点が6割に達していない場合はそこで切られてしまい、専門科目も卒論も目を通してすらもらえないとの事でした。
自分の部屋の中にあるテレビはコンセントを抜いて収納にしまいました。マンガは昔からそんなに読まないのであまりなかったのですが、とにかく試験勉強に関係ない本やその他のものは段ボール箱に入れてガムテープやビニール紐で封をした上で収納に入れ、一切目に触れないようにしました。
最初の数日は頭がおかしくなりそうでしたが、じき慣れました。フランス語は大学の授業でやった程度だったので、別途解釈系の参考書を買ってやりました。専門の方は当時「定番」だったこの本を一通りさらいました。もちろんこれだけでは足りませんでしたが。
1994年冬、28歳、1つ目の大学院入試面接でやらかす(通常運転)
大学院は2つ受けました。どっちもQ大で、どっちも社会学系でしたが、一方は古くからある「研究者養成」の研究科で、他方はできて間もない「学際大学院」でした。
「学際大学院」の方が先に入試がありました。とりあえず筆記試験で戸惑いました。できて間もなかったため、過去問も一切見ることができなかったからです。ただ外国語は英語だけだったので助かりました。
その英語で奇跡が起きました。今思い出しても本当に「奇跡」としか言いようがなかったのですが、問題を完璧に解くことができたんです。問題は数ページにわたる超長文とその設問から成っていました。普通長文の中に知らない単語や意味が取れない文章のいくつかはあるものですが、なぜかそれが全くありませんでした。こんなことは後にも先にもこの時だけでした。
専門科目は結構難易度が高く、わからない問題もありました(本命だった方より明らかに難易度が高かったです)。ただ合格点には達しているだろうという手応えはありました。
問題は面接でした。3人の面接官に、主として卒論の内容を問われました。その中で一番お若い先生(後でわかりましたが私と2歳しか違いませんでした)が私の卒論を「批判」し始めました。曰く
君は社会思想史的な流れを無視して議論を組み立てている
君はこの社会学者の理論を誤解している
等々。今にして思えば「圧迫面接」で耐性を試そうとされたのだと思いますが、入試面接とは言え「言いがかりをつけられた」と勘違いした私は、その面接官に
社会思想史の流れの通りに議論を進めないといけないなら、それは単なる教科書です
あなたの方こそ勘違いしています。いいですか、集合論における濃度概念によれば
などと「返して」しまいました。その後無事口論になりました()。
もうお一人の先生が見かねて
ここは議論の場ではないので、2人とも落ち着いてください
と諌められようやく
ハッ!そうか!
と気づきました。帰り道ではうなだれていました。もう絶対に落ちたに違いない、と。
同時期、2つ目の大学院(本命)入試はつつがなく進む
このドデカい失敗があったので、次に受けた本命の大学院研究科の入試では、つとめて大人しくしていました。外国語2科目はまずまずの出来、専門科目はかなりできました(当人比)。そしていよいよ面接です。
まず卒論の内容に関して、こう言われました
これ、社会学というより、なんか哲学っぽいよね。
私はもう
Yes, It is!
とだけ言いました(もちろん日本語で)。とにかく言い返さないようにしました。
専門の試験問題に関して、もうお1人の先生(面接官はおふたりでした)からこう突っ込まれました
グラフから何が読み取れるのかって問題なのに、君の"解答"は自説ばかりじゃないか(笑)
私は続けて
Yes, I did!
とだけ言いました(もちろん日本語で)。とにかく言い返さないようにしました。
両方とも落ちたかなぁ...どうしよう
と、院試が終わってから気が気ではありませんでした。当時は外部の大学から進学するということがあまりなかったので余計にそう思いました。本命の大学院の試験会場では明らかに内部進学とおぼしき受験生が2名はいて和気あいあいと談笑したりしていました。当時私は、通っていた大学の(ゼミの先生ではない別の)先生から事前に「合格するのは2名程度らしいよ」と聞かされていたので、試験会場ですでに「あっw」という感じでした。
意外な試験の結果
最初に受けた大学院は、なんと受かっていました。なぜだかよくわからなかったのですが、あとで先生方にお話をうかがうと「ハナチェンコ君はぶっちぎりの成績で合格していたよ」との事でした。
ぶっちぎりの成績で「落ちる」のならわかりますが、なんで?と思っていると、あの面接での評価が高かった、と教えてもらいました。もちろん筆記も手応えはあったのですが、あの面接のあの態度を評価してくれたのか、と泣きそうになりました。と同時に自分の見通しの甘さに恥ずかしくもなりました。
本命の方もなんとか合格していました。例の2人も一緒に、です。なので3名合格でした。あぁよかった...。
最初に受けた大学院に合格した時はすぐに父の勤務先に電話して「受かったよ」と報告しました。「え?受かった?」みたいに返されたのを覚えています。まさか受かるとは思っていなかったようです。まあこれまでの私の「所業」を見ればそう思うのは無理もない話です。
当時よく父親に言われていた言葉は「お前はうどん屋の釜だ」でした。意味わかりますか?「湯(言う)ばっかり(で行動が伴わない)」という事です(涙)。
しかしこれで少し安心してもらえるかな、とホッとした気持ちになりました。
まーた4000字超えてしまいました。いや待てよ。5000字超えてました...。
なんだかこれってnoteに載せるような内容か、日記かよ、という感じですが、もうちょっとだけお付き合いください。次回は大学院時代から始めたいと思います。もしお読みいただいている方がいらっしゃれば、ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?