中卒だった頃の自分、今の自分⑤
こんにちは、ハナチェンコです。⑤です。
5. 2度目の大学入学
マジで最後のチャンス
1990年春、もう23歳になっていました。このままじゃマジでヤバい、どうしよう、と思ってたら、私が体調を崩していたこともあって若干優しめになった親が
と言ってくれました。また早速試験勉強を始めました。とはいえ「自宅から通え」て「絶対に合格できる大学」じゃないとダメなわけです。そこで22歳の時、つまり最初の大学を受けた際に一緒に受けた地元の私立大学を受けようと思いました。その時合格していたので多分大丈夫だと思ったわけです。
模試も受けました。必死で勉強したので、小論文でなんと成績優秀者に選ばれ、当時発売されて間もない図書カードをいただきました。
親に自慢したら殺気だった目で睨まれました。当たり前です。
2年前に受けたのと同じ学科を受けました。深い意味はなく、単に「文系学部でなんか色々な分野が学べそう」という軽い気持ちからでした。
1991年春の24歳、無事合格しました。いつも思うのですが、私の人生、いつもギリギリのところでなんとかなる癖があります。この時もそうだし、この先もそうでした。
ようやく始まった「まともな」大学生活
今回は大学の授業にもきちんと出席しました。また脇道に逸れるのが怖かったので、サークル等は入りませんでした。バイトもやりませんでした。つまり実家に甘えていました。24歳でしたが。なかなかの甘えっぷりです。信じられない。
英語の授業の初回、テキストを渡されて、先生からたぶん
と告げられました。「たぶん」と書いたのは、この時私は「順番に」を聞き逃していたからです。
真っ青な顔で帰宅し、すぐに英語のテキストを1ページ目から全訳し始めました。つまり毎週抜き打ちで誰かに当てて訳を答えさせる、と勘違いしたのです。でもやってもやっても進みません。次の授業前日に「まだ数ページしか行っていない、もうダメだ...」と諦めました。
授業を受けて脱力しました。当たり前の話ですが、前の方から順番に、毎週数人だけ当てて答えさせる授業だったのです。身体中の力が抜けて授業中タコのようにゆらゆら揺れていました。前の大学は芸術学科だったし授業にロクに出ていなかったので、こういう事すら知らなかったのです。
ただ勘違いして死に物狂いでテキストを訳し続けたのが功を奏して、以後英文を読むのが苦にならなくなってきました。これは思わぬ収穫でした。
授業は総じて楽しかったです。小学校以来ほぼ初めてまともに授業を受けたわけなのでそれはもう新鮮でした。哲学に心理学に教育学に...。「科目を選択できる」というのがほんと私には合っていました。「サボっても特に何も言われない」ので逆に休みませんでした。色々気楽でした。
入学直後、唯一つまらないなぁと思ったのが社会学でした。なんやこの無味乾燥な学問は。「人間は社会的動物です」て、周囲=社会とうまくやれない俺にケンカ売ってんのか、と。
そういえばこの大学は体育実技が必修でした。調べたらあの嫌な水泳があるとの事でした。当然息継ぎはできないままです。どうしようか、と考えた挙句、自分の体調が悪いところを探しまくり、病院に行って診断書を書いてもらい、それを持っていき「病気コースの体育実技」に振り替えてもらいました。こっちは水泳がなかったからです。
ただ本当は体調もまずまずだった訳で、この「病気コースの体育実技」でバスケットボールの授業があった際、相手チームになったムカつくイケメン野郎(今考えてもこいつはマジでムカつく奴でした。ブサメンの敵です)とボールを奪い合いシュート合戦になってしまいました。当然のごとくゲーム終了後に2人とも先生に呼ばれ
と怒られました。
6歳年下のクラスメイトとうまくやれない
現役でこの大学に入ってきた学生は18歳(1972,3年生まれ)、私は24歳(1966年生まれ)。6歳の差がありました。今だったら普通に同い年同士のように振る舞いますが、まだ相当勘違いが入っていた当時は
とイキっておりました。そのくせ同時に輪の中にも入りたくて新歓コンパにはちゃっかり参加したりしていました。でもそこでもなんか偉そうにしていたはずです。結局そこで友達はできませんでした。いろいろと矛盾した感情を抱えていたのだと思います。
そんな感じで「イタい」学生だったので、コンパのみならず4年間を通じて友達らしき人は1人もできませんでした。ただ可愛い女の子には目がなく、試験前に「ハナチェンコ君、ノート見せて」などと言われたらだらしない顔つきで「いいよ!(いいよ!)」と二つ返事で教えていました。
当時(1992年から1995年の大学2,3,4年の頃)私には行きつけの喫茶店があり、そこで同じように大学の同級生の女性と試験勉強をしていたら、遠くで「あの男、いっつもヘラヘラ女の子に勉強教えててバッカじゃないw」と私を冷ややかな目で見ていた、女性がいました。ちょくちょくこの喫茶店にやってきていた女性でした。今の妻です(涙)。なお当時僕は妻の存在には全く気づいていませんでした😭。
社会人になった中学の同級生の中には地元のテレビ局に就職した人もいました。その当時、つまり1992,3年つまり大学2,3年の頃だったと思いますが、彼は若者向けの深夜人気番組のディレクターをしており、私が大学生をやっているというのをどこからか聞きつけ「『今日の美人』みたいなコーナー(正式名称「デートポイント」)に出る人探してるんやけど、お前のクラスメートで誰かおったら教えて」と連絡がありました。名刺もたくさんもらいました。
その名刺を大学でクラスの女子に配りまわり(!)、結局1人に出演してもらいました。本人はとても喜んでいましたが、周囲、特に男子学生からは「なんなんあの老害学生、妙なエサで女子学生おびき寄せやがって」みたいに見られていた気がします(というか多分そう見られていました)。ほんと、今思えばイタすぎる学生でした。最悪です。
そしてまた多少やらかす
そんな感じで学生とはなかなかうまくやれなかったのですが、歳が近い先生には可愛がってもらいました。中でも、5歳年上の先生(男性)には、よく飲みに連れていってもらったり、相談したりされたり、とほんとお世話になりました。あと2歳年上の英語の先生(女性)を好きになり、その先生の試験の直後にクリスマスプレゼントを渡したり、一方的に電話したりしていました。で、電話で告って振られたました笑。曰く「学生とは付き合えない」…そりゃそうですよね。でもそうかな?笑。僕がその先生のドストライクのタイプだったら違ってたかも…。あぁこの顔を恨むしかない…。
大学も2年になるとゼミに所属する事となります。1992年初頭の大学1年の冬、大学のセミナーハウスで朝から夕方までかけて「ゼミガイダンス」が行われました。ゼミご担当の先生がお一人づつ壇上に立ち、ゼミの内容などを説明するというものです。
あろうことか私は、その時先生方にこう訴え出ました。
まあ身の程わきまえずによくも言えたものだと思いますが、先生方は、渋々でありますが認めてくださいました。最初に行った大学で、正規の授業には出ないのに学生が運営する自主ゼミには出ていたため、この大学でもやろうと考えたのでした。ただあの大学と違ってこの大学は「ごくふつうの大学」でした。そこがわからなかった当時の私でした。もうほんと残念すぎます。
学生が壇上で説明した結果、周囲はドン引きし、唯一「ハナチェンコ君の自主ゼミ参加しようかな」と事前に言ってくれていた女子学生(当時好きだった女の子です。この子にもこの後振られます笑)も引き潮のようにどこかにいなくなってしまいました。一部先生は「なんで学生を壇上に立たせるんだ」とご立腹だった、と後で別の先生に伺いました。まあ当然ですね...。
ガイダンスが一通り終わり、質問コーナーに入りました。配布された紙に、質問したいゼミの先生のお名前を書き、その下に質問事項を書くのでした。そこで私はある先生のお名前を書き、その先生がガイダンスでおっしゃっていた事にいちいち批判的な質問をしました。フッサールの現象学は...とか、ポスト構造主義は...とか、当時自分が理解していると思い込んでいた「難解な事柄」を散りばめました。もうね。イキり大学生の標本のような感じでした。
すると、私の質問を見た先生がこっちに歩いてきました。
それはバカにしたような言い方ではなく、褒めてくれる感じの口ぶりでした。自主ゼミの件でちょっと落ち込んでいたので、これはかなり嬉しかったです。うかがうと、先生は「社会学」がご専門で、ゼミも社会学のゼミだ、という事でした。最初に受けた社会学の授業も、図書館で手に取った社会学の本も全然面白くはなかったけど、この先生のゼミを選ぼうなかぁ、となんとなく考え始めました。たぶん「この人は俺のこと認めてくれるかも」と考えたのでしょう。なんというゼミの選択基準。
ゼミに入り損ねそうになる
ゼミ選考の日がきました。学生数が多いため、ゼミは第5希望まで書かされました。私は社会学の先生のゼミを第1希望にしました。あとは、古代ギリシア哲学のゼミ、人類学のゼミ、教育学のゼミ、臨床心理学のゼミなどを選んだ記憶があります。第1希望以外は「関心を持った」学問のゼミでした。
1992年春の所属ゼミ発表の日、無事第1希望の社会学のゼミに入れていました。25歳になっていました(順調に行っていれば博士後期課程2年でした笑)
後日、そのゼミの先生の授業がありました。私は受講していたので普通に授業を受けていると、授業終了時に「ハナチェンコ君、ちょっと」と呼ばれました。そこでこう言われました。
そうだったんだ...と胸を撫で下ろしました。これはあくまで推測ですが、他の先生も「あいつがうちのゼミに入ってくるのだけは」などとお考えだったのかもしれないです。だから「『厳密に』成績順で!」と言ったのかな、と。とにもかくにも無事ゼミに入れました。大学の授業に専念した甲斐がありました。
呼ばれなかった同窓会
知る術もなかったのですが、ちょうどこの頃(1992,3年頃の25,6歳)、中学の同窓会が月イチで開かれていたのでした。同窓会といっても、中学時代仲良かった連中が十数人、毎月同じ居酒屋に集まって飲み会してる、という感じのものでした。そのメンツは私にとっても当時比較的仲が良かった人たちでした。でもしばらくの間、同窓会には呼ばれませんでした。
ある時、近所に住んでいる同級生(男)から「同窓会やってるんだけど、来る?」みたいに言われたので「行く行く!」と二つ返事で行きました。それからしばらくの間参加しました。ある時の同窓会で
と聞いたら、
と返されました。「なるほど」としか言いようのない「配慮」でした。同級生が大学を卒業して社会人になったのは1989年、まさにバブル景気の真っ只中です。同窓会の時たくさん名刺をもらいましたが、都市銀行に航空会社、上級公務員にテレビ局ディレクターなど、なんだかキラキラしていました。
と聞かれ周囲が爆笑する場面もありました。私も一緒に爆笑していましたw。後日譚ですが、プリンターで印刷した手作りの名刺を持っていって更に笑われました。
そんなこんなで、単位も順調に取得しゼミにも入れ、同級生とも再会でき、このまま行けばなんとか大学を卒業できそうだ、という見通しが立ってきました。
次回は大学卒業からのお話です。毎度毎度長ったらしい文章を読んでいただいてありがとうございます(読者がいれば、の話ですが)。
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