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勝谷誠彦の死

小説家・勝谷誠彦の死


 *以下の文章は、2018年12月に、その前月に亡くなった勝谷誠彦の追悼文として有料メール「勝谷誠彦の✕✕な日々」に書いたものです。

 6年経ったし……と、有料メールを運営するヨロンさんこと高橋茂さんに許可をとり、こちらに転載しますが、彼のプライベートに関する話をカットしたり、少しばかり編集はしました。

 今回の兵庫県知事選挙で、彼のことを思い出す人もいたけれど、やっぱり人間は死んだら忘れられてしまうからと、改めてこの追悼文を出そうと思いました。

 私自身が忘れないためにも。


「小説家・勝谷誠彦の死」


「ママ」と語りかける声が流れてくると、あなたを思い出さずにいられませんでした。クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーを描いた映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観ているときのことです。コンプレックス、富を手に入れ名が売れたゆえの傲慢さと、そこから生じる周囲の人との確執、家族への愛情、孤独、そして死を招いた病……と、この映画を観ていると、あなたのことをどうしても連想してしまいました。

 最後のほうは嗚咽を堪えるのに必死でした。映画のタイトルにもなった「ボヘミアン・ラプソディ」の「ママ」と語りかける部分の歌詞は、まるであなたの独り言のようでした。


 あなたが亡くなる数日前、私は仕事部屋に寝転がってぼんやりとしていました。そのとき、ふと本棚を見ると、あなたの本「平壌で朝食を。」が目に留まったのです。本棚の一番下の段なので、普段は視界に入らないのですが、横になっていたので、私の顔のすぐ横にありました。

 そういえばと、私はその本を久しぶりに手にとりました。もともと「小説宝石」という文芸誌に書いた短編を集めた単行本「彼岸まで。」が2010年に文庫化されたものです。

 この本には、「ママ。」という、母の死について書いた話が載っていたなと、ページを開きました。あくまで「小説」ではありますが、語り手である「誠彦」と、その状況は、明らかにあなたのことなので、「私小説」です。

 あなたが酒で身体を壊し入院したあと、いえ、もっとずっと前、今年の二月に大阪で会ったときから、私はあなたが語った「ママ」の話を何度か思いだしていたのです。2014年にあなたにインタビューをしたとき、俺がこういう人間になったのは母親の影響が大きいと口にしていました。

「ママ」の話を聞くと、あなたの性格は母親の血が濃いとしか思えませんでした。その際に、「ママ」が酒が好き過ぎて……とも知りました。久々に「ママ。」という短編小説を読み始めると、ある一文が目に留まりました。


「酒が好きで、結局は酒によって緩慢な自殺とも言えるママにできれば故郷の旨い酒を飲ましてやろうと、心のどこかで思っていたからかもしれないのであった」


という一文です。

「飲んだら死ぬ。酒を止めれば生きる」と言われていたのに、退院したあと、あなたが酒を断ったといいながら飲んでいるのは聞いていました。あなたが大好きだった「ママ」と、同じことしていると思いながら、私は「ママ。」を読み終えました。この本に書かれている「ママ」についての記述が本当ならば、ママも11月に亡くなっているんですね。過去の有料メールを読み返すと、あなたの「パパ」が亡くなったのもこの時期でした。11月の頭にあなたは有料メールで、父親の通夜と告別式のことを書きました。


「ママ。」には、こんな一文もあります。母親に溺愛され期待された息子だったあなたは、灘中に入り成績が落ち、「彼女の自慢の装飾品ではなくなった私を見る眼差しは常に鋭い棘を含み、子供にとってただひとり還るべき存在の母親に鎧われては、私は家を出て旅に遊ぶしかなかったのである。それから、ずっと旅をしてきた」そう、書いています。

 以前、インタビューした際に、「灘中に入ったら劣等生になったので、ママのプライドが微塵に砕けて、どうしてお前はそんなバカなのって言われましたね。『毎晩、宝塚ホテルまで行って離乳食のポタージュ食べさせたのに、どうしてこんなバカができたの』と嘆いていたと聞いて、記事にもしました。http://hanabusa-kannon.com/joko/1545

 灘校から東大に行けなかったことが、あなたの劣等感のひとつだったのは、有料メールに「灘校自慢」が並ぶのと、卒業した早稲田大学のことをよく言わないことに現れています。それはもしかして、東大に行けなかったということよりも、母親の期待にそえなかったことが、あなたの傷だったのかもしれません。


 あなたは多くの劣等感を抱えていて、それを振り払うかのように、ときに傲慢な態度や発言をしました。劣等感が強いからこそ、優越感を必要とし、人より優位に立とうと人を見下し、傲慢になるのです。自分自身がそうだから、劣等感とセットの傲慢さに、私は敏感です。

 有料メールで近年繰り返された「首相の友達」「灘校」「元文藝春秋」自慢にうんざりしていると私は以前書きましたが、あなたの心がそれらの権威的な肩書に頼らなければいけないほどに弱っているのだと思うと悲しかったのです。

 あなたは常に、自信の無さと傲慢さの狭間を揺れ動き、またそんな自分を誰よりもわかっていたからこそ傷ついていました。あなたが亡くなったあと、あなたを知る人たちの多くが「繊細な人だった」とコメントしていました。

 私もあなたは繊細過ぎるほど繊細で、そんなに傷つきながら生きていくのは大変だと思いながらも、繊細さは小説家としての能力のひとつだと考えていました。けれどもしその繊細さであなたが命を縮めたのだとしたら、私は自分の繊細さを、ドブ川に流して捨ててしまいたい。あなたが亡くなったとき、そう思いました。


 あなたの最大のコンプレックスは「小説」でした。「俺は芥川賞コンプレックスなんだ」とも言ってましたね。芥川賞は純文学の新人に送られる賞です。サンテレビの「カツヤマサヒコSHOW」第一回のゲストである百田尚樹さんとの対談で、「文学部文芸専攻出身なので、文学に対する思い入れがものすごくあるんです」と語っています。

 そして芥川賞を主催している文藝春秋の純文学文芸誌「文學界」に掲載された「ディアスポラ」が芥川賞の候補にもならなかったことを、ひどく気にしていました。「俺は文藝春秋と喧嘩して辞めたから取れないんだよ」と言っていました。それはあなたが創作した言い訳だと思っていました。

 そもそも文藝春秋とそんな険悪なら、「文學界」に載らないし、その後も依頼があるわけがないでしょう。文藝春秋から小説を出す話があったのは、あなたも有料メールで何度か書いていたではないですか。結局、書けないままだったけれど。


 世の中には、小説家といえども、私のように文学賞に縁のない最初から圏外の小説家もたくさんいるし、何度も繰り返し賞の候補になって受賞できない人もいます。だから一作が、賞の、しかも日本で一番有名な文学賞の候補にならなかったぐらいで傷つくなんてと思っていましたが、それだけあなたの「文学」に対する思い入れは強かったのです。

 あなたの「本」になった小説は、「平壌で朝食を。」と「ディアスポラ」の二冊です。それぞれ単行本が文庫になったものなので、「二冊」とします。あれだけ筆が早く、何でも書けて、多くの本を刊行しているのに、二冊だけです。そしてあなたは有料メールでも、私に対しても「そろそろ本腰入れて小説を書かねば」と言っていましたし、出版社と具体的な話もしていたはずなのに、結局、書きませんでした。

 誰よりも小説に強く思い入れがあり、小説を書きたい気持ちも強かった人なのに。いえ、だからこそ、書けなかったのです。東良さんもヨロンさんも、あなたの小説への思い入れの強さ、そして書けなかったことについて追悼文やコラムでふれていましたが、あなたを知る周りの人なら、誰だってそう思うでしょう。

 そしてもどかしく思っていたはずです。私も、そうでした。小説を書きたいという強い気持ちがあり、才能だってあった。けれど書かない、書けない、つまりはひどく怖がっていたのがわかりました。「なんで書かないの」と思っていたし、あなた自身が苦しんでいるようにも見えました。


 三年前のあなたの誕生日は「カツヤマサヒコSHOW」の京都ロケで、朝から「俺、今日誕生日なんだよな……ロケ終わってから用事ある?」と聞かれました。「マネージャーのT—1さんと一緒に過ごせばいいじゃないですか」と返すと、「それは嫌だ」と悲しそうに言うので、「じゃあ飲みましょう」とロケ終了後に京都駅前の立ち飲み屋に行きました。三人で飲んでいたときも、小説の話になり、「書くよ、来年はちゃんと小説を書く」と言っていました。

 あなたが2017年に兵庫県知事選挙に出馬を表明したのをニュースで知ったとき、私は正直「逃げた」と思いました。小説から、逃げたのだと。知事になれば時間的に小説を書くことができなくなる、そうやって退路を断とうとしたのではないか、と。

 世の中には週に少ししか働かないような知事もいるらしいのですが、あなたのことですから、休みなく全力で県のために動くでしょう。そうなると、小説どころではありません。だから、「逃げた」と思ったのです。

 あなたに「遊びに来て」と言われ、私が事務所開きの日に三宮に行くと、遊びに来たはずなのに、マスコミの前で喋らされ、そのあとすっかり知事選に巻き込まれてしまいました。「遊びに来て」と言ったのは、「選挙の応援して」と言われたら、私が断るのをわかっていたのでしょう。

 けれど実際に事務所に行き、そのあと三宮周辺で演説をするあなたにつきあって、私はワクワクして楽しんでいました。こんな面白い経験ができるなんて、と高揚していました。演説について歩く私に、あなたが「これ、書くだろ」と声をかけたので、「うん」と答えたのは、小説家だから自分の身に起こることは全て書くというのをあなたがわかっている人だったからです。

 知事選は現職に敗れましたが、あなたはとても真剣に戦っていたし、ヨロンさん、T-1さん、ボランティアに駆けつけてくれた人たちのおかげで、64万票をとりました。これは、すごいことです。あんなに準備期間が短く、どこの党からの応援を得ることもできず、すべて自分たちの「足」で稼いだ票で、ここまで来たのですから。

 けれどあなたは落選後、真剣だった分の反動でしょうか、父親が亡くなったとき「壊れた」と私が感じた以上に、崩壊していくように思いました。

あなたは私が思っているよりもずっと、弱く脆かった。


 今年の2月に大阪の血気酒会で会ったときに、私は不安になりました。食べないのに飲み続け、腹が膨れており、肌も荒れ、身体が悪いのが見てわかったからです。人と話しているときはいつもの「勝谷誠彦」でしたが、ひとりになったときの表情が、ひどく暗く、虚ろでした。私はそのときに、「この人、このままでは死ぬんじゃないか」と思いました。

 その頃から、ヨロンさんとあなたの状態についてよく連絡とり合うようになり、アルコール依存症に詳しい人に相談したり、夫がアルコール依存症だった西原理恵子さんがアルコール依存症について書かれた本も読みました。この西原さんの元夫の鴨志田譲さんを、西原さんに紹介したのがあなただというのも皮肉な話です。

 あなたに直接、「お酒やめたほうがいいよ」というメールもしましたが、「やめられないんだよ」と、短い返事が来ただけでした。

 結局、私は今年の2月以来、あなたに会っていません。「東京来たら会おう」というやり取りはしていましたが、私が夏頃、すさまじく多忙だったのや、すれ違いもあり、会う機会を逃しました。入院中にお見舞いに行くことも考えたのですが、結局、ヨロンさんにあなたへの手紙を託しただけで、やめました。

 私は怖かったのです。目の前で、酒を飲まれることや、「壊れた」あなたに会うこと、そして最初の入院時の20歳以上老けたのではないかという写真を見て怯えました。自分があなたに対してきついことを言ってしまいそうなことも、もしくは同情の表情が隠せなく、あなたを傷つけてしまうのも怖かった。

 そうして、再会したのは、あなたのお通夜でした。メールだけで、直接会わなかったことが、よかったのかどうか、私にはわかりません。けれど、「あのとき会っておけば」という後悔も、不思議とないのです。


 あなたは本当に自分を曲げず……といえば聞こえがいいのですが、思い通りにならないと容赦なく怒り、恩のある人たちに対しても高圧的になり、あなたの言葉で不愉快になり、嫌な思いをした人はたくさんいると思います。

 特に選挙が終わったあとは、必死にあなたのために動いてくれたヨロンさんやT-1さん、ボランティアの人たち、投票してくれた人たちに対する感謝の態度も示さず、「暇だ」「負け犬」などと拗ねてふてくされたような言葉を有料メールに書き連ねることが、とても不快でした。

 大人げない……のは今さらのことでしたけれど、みんなが大変な思いをして、落選したときも悔しくて泣いていた姿を私は見ていたので、あなたに対しては失望と腹立たしさが膨らみました。

「知事にならなくてよかった」と多くの人が、あなたの態度を見て思ったことでしょう。そんなふうに思わせるのは、一番いけないことのはずなのに。

 あなたはあの頃、「暇だ」と毎日昼から酒を飲んでいましたが、「そんなに暇なら今度こそ小説を書けばどうだ」と人が思うこともわかっていたようで、「どこからも小説の依頼がない」などと書いていましたね。

 それもあなたのズルい小さな嘘でした。小説を書きさえすれば出版してくれる複数の版元がいました。あなたはよく、弱さゆえの小さな嘘を吐きましたが、あなたは悪人ではないので、すぐ見抜かれてしまう程度の嘘ばかりなのです。だから罪はないと、私は思っていました。そうして心を守らなければいけないほど、あなたは弱かった。


 私は信じていたのです。いつか、あなたが、くだらないプライドや芥川賞に対する執着を捨て、多くの人が心を躍らせる小説を世に出してくれることを。

 自分の作品を賞の選考委員に酷評されたり、ネットでボロカスに書かれて、「書くのが怖くなってそのまま書けなくなる」人は、たくさんいます。名前が、本が、多くの人の目にとまればとまるほど、賞賛以上の、批評とはいえぬ中傷などが著者にはふりかかってきても、それらは自分で背負わねばなりません。

 私だとて、あなたの知名度から比べたら、全く無名に近い小説家で、実際にそんな売れているわけでもないですが、今まで散々の批判、誹謗中傷は受けました。でもそれでも書いていかねばならないのです。傷つき、落ち込みはするけれど、書かねばならない。私ですらそうなのだから、誰よりも小説を書きたいという気持ちの強いあなたは、いつか乗り越えて、書いてくれるものだと信じていました。

 そのときはじめて、あなたは小説という呪縛から逃れられるはずだったのです。


 2度目の東京の病院への入院中、隠れて飲酒していたと聞いたときは、ドンと、背中を押され、暗い穴に突き落とされた気分になりました。「飲んだら死ぬ、酒を断てば生きられる」のに、あなたは生きる道を自ら断とうとした。あなたの身近な人たちは、あなたから酒を遠ざけようと必死でしたし、この有料メールの読者だって、それを願わなかった人はいないはずです。

 みんな、あなたの振る舞いに、苦しんでいました。あなたを死なせたくなかったのに、あなたが酒を断てなかったからです。アルコール依存症という病気の怖さと、そこに辿りついてしまった「生きよう」という望みを失っているあなたの絶望の深さを思いました。いえ、あなたの中には「生きよう」という気持ちはあったと思っています。このままじゃ死ねない、と。けれどそれ以上に、酒があなたを離さなかった。

 そうして尼崎に戻り、すぐ意識不明になり、あなたは死にました。ちょうどあのとき、私はコラムの件で、ヨロンさんとやり取りをしていて、「もう駄目かも」と聞きながらも、まだ望みはあるのではと思っていました。

 あなたは悪運が強い。最初の入院のときだって、集中治療室に入り、あのまま死んでもおかしくなかったのに、断酒してすごい回復力を見せました。イラクの取材で生き残り、墜落した日航機に乗るはずだったのに運よく逃れ、あなたは異常なほど悪運が強いはずだった。

 だけどヨロンさんとやり取りしている最中に、あなたは死にました。その2週間前に東京で血気酒会に出たあと、ヨロンさんと飲んで、覚悟しないといけないし、もし亡くなっても、「仕方がない」と受け入れないといけないのだなと思っていたけれど、それでもまさかこんな早くにとは思わず、呆然としました。


 訃報を聞いたとき、私の枕元には、数日前に本棚から引っ張り出した「平壌にて朝食を。」がありましたが、開く気にはなれませんでした。ただ、あなたは旅を終え、最後に「ママ」の元に戻ってきたのだとは、思いました。そして自分でも驚くほど泣き続け、目が腫れ、頭が痛くなりました。「仕方ない」と受け入れるつもりだったのに、未だにそれはできません。

 今、少しばかり時間が経ち、悲しいという気持ちだけではなく、悔しいのと、腹が立つので、私はあんなに感情を崩壊させたのだとわかります。

 悔しいのです。あなたが「小説家」として死ななかったことが。


 どこのメディアでも「辛口コラムニスト」などとあなたの名前の前に肩書をつけました。「小説家」ではないのです。ついでにいうと、私はあなたを辛口だと思ったことはありません。正直な人だなというだけです。

 あなたはあんなにも、小説を書きたがっていたのに、書けずに死んだ。おそらく週刊誌等があなたの死をとりあげても、文芸誌が「小説家」として追悼することはないでしょう。だってあなたは、小説を書かなかったもの。

 世の中の多くの人は、「辛口コラムニスト」「コメンテーター」としか思っていない。「俺の小説は売れない」とか、私が本を出すと「いいなー、うらやましい」って言ってけど、書いて出せばいいじゃんといつも思っていました。それをしないのは、あなたでしょ、とも。

 亡くなる前は腹立たしいこともあったし、周りの人に対する態度にうんざりしていたけれど、私自身は、出会ったときから大事に、優しくしてもらっていました。

 でも、次々と小説の本を出し、「勝谷さんも書けばいいのに」と簡単に口にする私が追い詰めていた部分もあったかもしれないとも、ずっと考えています。

 私はデビューが官能の賞だったこともあり、様々なジャンルの本をたくさん出そうが、小説家扱いされない、小説の世界の人に相手にされない、露骨に侮蔑されることは、未だにたまにあります。あなたが焦がれた文学賞だって、縁はありません。そんな私のような無名の小説家を、あなたは大事にして敬意を示し続けてくれて、本当に嬉しかったし自信になりました。

 私が書き続けるのは、「小説を書きたい」という気持ちもありますが、それ以上に現実的な生活の糧だからです。書かないと、本を出さないと、私は生活できません。食うために、不可能なジャンル以外なら、書けと言われればなんでも書きます。売れなくても、評価されなくても、そんなことを気にする前に、次また書かないと、生活に困るのです。

 あなたには十分な財産と収入があり、私のように生活の糧として小説を書く必要はなかった。でもだからこその賞への執着や、評価されることの怖さが、あなたを雁字搦めにしていました。けれど、50半ばを過ぎ、あなたはその呪縛を解いてもよかった。物書きは定年もなく、年齢を重ねた50代、60代で傑作を書く人はたくさんいます。あなたは、東良美季さんが追悼文で書いていたように、「あとは書くだけ」でした。


 告別式のあと、マネージャーのT-1さんから、あなたの部屋には膨大な量の、小説のプロットが書かれたノートがあったと聞きました。プロットというのは、小説を書くためにあらすじのようなものです。あなたには「書くべきこと」「書きたいこと」がそんなにもあったのだという事実が、私には何よりショックでした。

 それらの小説は、もう生まれてきません。同じプロットで誰かが書いても、あなたの小説ではない。あなたが生み出そうとした、多くの小説は、世に出ず、葬られます。あなたの死と共に、たくさんの小説が葬られ墓場で眠り蘇ることはない。それが私には、何より悲しく、そして恐ろしいことでした。

 あなたが病院に酒を持ち込んで飲んでいたと聞いたとき以上に、私は深く暗い穴に突き落とされた気分になりました。小説という、底の見えない、得体のしれない、深くて暗い穴に。

 小説を生業にしている私は、誰よりも小説を書きたいあなたの、服の袖ぐらいを掴んでいたのに、あなたに振り払われてしまい、その穴に落ちてしまった、そんなふうに思いました。けれど本当に穴に落ちたのは、私ではなく、あなただったのです。

 小説って、何でしょう。あなたがそこまで執着するのを理解できない人も、たくさんいるはずです。一部の売れっ子小説家を除けば、ほとんどの小説は売れません。びっくりするほど、儲かりません。小説だけで生活している小説家も、実は少ないです。副業をしないとやっていけないのです。

 取材して時間をかけて何度も直した小説が世に出ても、賞賛より酷評のほうが目に付き、サラリーマンが2ヶ月で稼ぐ給料以下の印税しか入らないなんてことのほうが、多いです。はっきり言って、割りにあわない仕事です。

 それでも、なんで小説を書いているのでしょうか、書きたいのでしょうか、書くことに執着するのでしょうか。そして書きたくて、一度デビューしても、この出版不況の折は、出版社から本を出すことができない小説家も、たくさんいます、

 そんな不安定な仕事である「小説家」に、あなたは強く焦がれていました。焦がれすぎて、その火に焼き尽くされてしまった。私はひとり暗く未来の見えない世界に、取り残された気分です。あなたの分まで私はこれからも頑張って小説を書いていくなんて、間違っても言えません。

 あなたの死は、世に出なかった多くの小説の死でもあり、私にとって、絶望を目の当たりにされる出来事でもありました。今まで気づいてはいたけれど、前に進み続けるために、見ぬふりをしていた、絶望を。

 あなたの苦しさ、絶望に、私は取り込まれてしまいそうな恐怖と、戦っています。あれだけ書きたかったあなたが、生きるよりも、死に囚われてしまったという、恐ろしい事実と。

 あなたの死を「太く短く生きた」「好きなことして生きた」からと、受け入れようという人たちもいるけれど、私には無理です。

 無念、という言葉しか浮かびません。

 これから先もずっと、私が小説を書いて生きていく限りは、あなたの死について考え続けていくでしょう。


 めんどくさい男だなと、ずっと思っていました。だけど、それでも嫌いになれなかったのは、一緒にいると楽しくて、いろんな世界を見せてくれたからです。とても優しい人であるのは間違いありません。

 お通夜、告別式で、選挙ボランティアの皆さん、サンテレビの「カツヤマサヒコSHOW」チーム、共通の知人の出版関係者などと再会して、まるで同窓会のようでした。あなたがいなかったら、この人たちにも出会えませんでした。そしてみんな、あなたに困らされたことがたくさんあるはずなのに、泣いていました。

 あなたは尼崎で死にたかったのではないでしょうか。大好きなパパとママと暮らし、勝谷家を守る弟さんが住む、尼崎で。尼崎は、先の兵庫県知事選挙で、唯一あなたが現職より票をとった町です。だから、東京の病院を退院し、尼崎に戻ってすぐ、あなたは死んだのではないかと思いました。

 また、あなたが死んだ日は、最後まであなたに一番苦しめられ、傍にい続けたヨロンさんが神戸に来る予定をしている日でもありました。「今日、神戸行くので、勝谷の様子を見てきます」とヨロンさんとやり取りしているときに、あなたは死にました。

 選挙をはじめ、毎朝のパソコンの不調、あなたはヨロンさんに頼りっぱなしでした。「天涯孤独」とか言いながら、ひとりじゃ生きていけない人だった。

 そんな頼りっぱなしだったヨロンさんが兵庫県に来る日に死ぬなんて、狙ったようです。最後まで面倒を見させようとしたんだなと、弔辞を読むヨロンさんを見て、そう思いました。

 けれど、ヨロンさんやT-1さんが、あなたの棺を担ぐ姿なんて、見たくなかった。

 もう悪態を吐くことのない、あなたの静かな棺の中の顔も、本当は見たくなかった。

 だから私はまだ「さようなら」とここに書く気にはなれません。


 あなたは有名人でしたが、「小説家」だと、思っていない人のほうが多いでしょう。けれどせめて、これを読んでいる人たちには、勝谷誠彦は小説家だったということは、覚えていて欲しいのです。

 生まれるはずだった多くの物語と共に葬られた、小説家だと。



 私はあれからずっと、あなたを救えなかったことを悔いています。

 たぶん、死ぬまで、ずっと、悔います。

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