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花の下にて 死なん ―団鬼六先生のこと―
*こちらは2011年5月8日、私を小説家にしてくれた団鬼六先生が亡くなった直後にブログに書いた文章を編集したものです。文庫版「花祀り」にも収録されています。
願わくば 花の下にて 春死なん その望月の如月の頃
桜が満開の先月10日、隅田川に浮かべた屋形船にて団先生は西行のこの歌を詠んだ。
そして、その通りに春の終わり、八重桜が散り始める頃に亡くなった。
願わくば春死なん――訃報を聞いた時に、驚きはしなかった。花見の時のご様子から、ご本人の話からその時が近いであろうことは感じていた。それでもこんなに見事に、遅咲きの桜が散る時に、春の終わりに逝ってしまうなんてーー見事だ、粋だと、思った。最後まで、「団鬼六」は「団鬼六」だった。
団鬼六先生については、あまたの方々がこれからも語るだろう。私など、2度会っただけの1ファンに過ぎないけれど、それでも第一回の団鬼六賞大賞をいただいた者としてここに団先生のことを書き記しておきたい。
そもそも私が「団鬼六賞」に応募したのは、それが大ファンである文豪の名を冠にした賞であるからだ。一昨年の秋から幾つかの新人賞に小説の応募はしていたが官能小説というジャンルは自分には書けないと思い込んでいた。アダルトビデオ等について雑誌やブログで書いてはいたものの、自分には男を勃起させるための小説を書く力は無いと官能というジャンルは避けていたが、本屋で官能文芸誌「悦」を手にとり「第一回団鬼六賞」の存在を知った時に、これだけはどうしても応募しなければと思った。それが「団鬼六賞」で無ければ書かなかったであろう。
二十代半ばの頃、ふと好奇心で古本屋で「新 夕顔夫人」を手にとった。それまで団鬼六という名前は知っていたが読むのは躊躇いがあり機会も無かった。太田出版から発売されたこの「新 夕顔夫人」は今でも持っている。
「新 夕顔夫人」は衝撃だった。凄まじく淫靡で狂いそうなほど興奮した。当時はサラ金地獄の生活だったので古本屋を巡り「団鬼六」作品を購入しまくった。その頃は幻冬舎アウトロー文庫から官能以外の小説、エッセイ集なども出版されていたので全て読んだ。
どうしようもない人間の業と悲しみを描いたエッセイや小説で泣き、笑った。敬愛する作家の名前を挙げる時は、いつも「山田風太郎、坂口安吾、司馬遼太郎、団鬼六」この4人の名前を挙げた。その中で、唯一、現代で書き続けていたのが団先生だった。
その名を冠された賞があると知った時、どうしても応募しなければ後悔すると思ったのだ。官能小説を書くのも、三人称の小説を書くのも初めてだったけれど、やらぬ後悔をするよりはいい。
そして昨年8月半ばに最終候補に残ったと連絡があり、それからは落ち着かない日々だった。俎板の上の鯉になるしかないとはいえ、どこかに願わずにはいられず団先生の生まれ故郷である彦根市に行き、彦根城に上り琵琶湖を眺めた。その足で、滋賀県長浜市高月町へ、ペンネームの由来ともなった渡月寺観音堂の十一面観音様のところにも行った。
9月18日の夜に、「大賞を受賞しました」との連絡があった。
団先生はその後、癌が転移したり等で、団鬼六賞の授賞式は伸びて翌年の3月となった。けれど入院もされていたので授賞式には来られるかどうかは当日までわからなかった。そして3月11日、未曽有の災害が起こる。東京ではあらゆる行事が自粛され授賞式の開催も危ぶまれた。停電もあるし食糧も無い。けれど「団鬼六」というアウトロー文学の巨匠の名を冠した賞だからこそ、首都が混乱する中22日に決行された。私は新幹線で東京に向かい、授賞式の会場に行った。会場で「今日、団先生が来られる」と聞いた。
自らの名を冠した賞だからこそ、自分が行かねばと足を運んでくれたのだ。
初めて会った団先生は、だいぶ痩せて小さくなっておられた。それでもさすがにサービス精神たっぷりのスピーチを披露された。
授賞式にはAV界の巨匠・代々木忠監督も来てくれた。3月上旬に代々木監督が映画のキャンペーンで来阪された折、授賞式に来てくださいとお願いした時、「俺は団先生と、つくづく縁があるんだよな」と代々木監督が口にした。以前、代々木監督と団先生は一緒に映画に出たこともあるのは知っていた。
そして代々木監督が作ったプロダクションの女優第1号が愛染恭子さんだ。(愛染恭子さんは今でも代々木監督のことを「社長」と呼んでいる)愛染さんと団先生の長くが深い繋がりは説明するまでもない。愛染さんの女優引退作は団先生原作の「奴隷船」だった。また何よりも代々木監督の奥様、元女優の真湖道代さんは元にっかつロマンポルノで活躍された方で、9月に私が真湖さんにお会いした時に「団先生には本当にお世話になったんです。お会いされたら、よろしくお伝えください」とおっしゃった。
授賞式より少し前、京都で東映の巨匠・中島貞夫監督に会う機会があった。不思議な話なのだが、その直前に読んでいた団鬼六先生のエッセイの中にちょうど中島監督が登場していた。若き日の中島貞夫監督が鬼プロに訪ねてきたエピソードだった。
中島監督に、もうすぐ東京で授賞式なんですとお話したら、「団先生にはね、俺の映画に出て貰ってるんだ。もし団先生に会ったら、俺はまだ生きてるよ! って伝えてくれよ」と、言われた。
授賞式で、私は長く自分の性を掻き立てられた作品を書き続けてきた大作家と初めて対面した。言葉が出なかった。
数日後、第一回団鬼六賞大賞受賞作「花祀り」は発売された。京都の町家を改造した密室で、女が大勢の京都の権力者達に犯される物語。帯には「団鬼六激怒!」とあった。これは本当の話だ。官能描写が全然できていない、女体が描けていないから駄目だと、選考会で話していたらしい。(その後、加筆修正を繰り返し発売に至った)
授賞式の時に、「花見に来ないか」と団先生に誘われた。隅田川に屋形船を浮かべて花見をするのだと。
4月10日、空は見事に晴れていた。夜行バスで京都から来てホテルに荷物を預け浜松町へ向かった。山手線の車窓から見える桜は、どこも満開だった。
団先生からいただいた花見の誘いのFAXには、
「私としてはこれがいよいよ最後のドンチャカ騒ぎだと思います」
と、あった。
花は紅、柳は緑。最後のドンチャカ騒ぎ――団先生にどうしても会おうと、私は東京へ行った。
隅田川に屋形船を浮かべ、酒を飲んだ。団先生のご家族や編集者の方々、作家の丸茂ジュンさんや棋士の方達が来ていて、団先生の奥様は、明るく陽気に場を盛り上げていた。素敵な方だった。「観音さん、お賽銭箱持ち歩きなさいよ! 観音さんなんだから!」と声をかけてくれた。
東京の桜を見るのは生まれて初めてだ。仕事柄いつもこの時期は忙しく関西から離れられなかった。隅田川沿いの桜は満開で人も多い。船の屋上に上り、目の前には東京スカイツリーが見えた。団先生は人に支えられながら、満開の桜を眺めていた。
船が戻り始め、団先生がマイクを握られご挨拶をされた。正直、だいぶ舌がもつれていたが、東日本大震災のことなどを話し、上記の西行法師の歌を詠んだ。
願わくば花のもとにて春死なん――
皆が口々に「先生、今度は花火船を出しましょう」「来年も花見をしましょう」と言っていた。目頭を押さえている人もいた。
この花見に初めて参加して、団先生とも2度しか会っていない私がこんなふうにわかったようにいうのを不愉快に思われる人もいるかもしれないし、月並みな言葉しか出てこない自分も嫌なのだけれども、
団先生は、皆に愛されているのだと思った。
船が着き、最後に全員で写真を撮った。帰りの挨拶をした時に、団先生が、「頑張って」と、言ってくださった。目頭が熱くなった。
多分、これが最後だ、この花見が今生の別れになるだろうと、その時に思った。
だから訃報を聞いた時も驚かなかった。あの隅田川の屋形船の花見の日からこの日が遠くないことは感じていたから。けれど、まさかあの時に西行の歌のとおりに、春の終わり八重桜の散る頃に逝ってしまわれるなんて――最後まで粋でかっこよすぎる。
隅田川の屋形船の花見のお誘いのFAXを見た時に思い出したのが、豊臣秀吉の醍醐の花見のことだった。太閤・豊臣秀吉が亡くなる前に催された醍醐寺での盛大な花見。秀吉の命が永くないことを察していた醍醐寺の座主の義演が花を移植し天下人・秀吉に相応しい華美な舞台を作り上げ、1300人が集い桜を愛でたという花見。その5ヶ月後に秀吉は「露と落ち 露と消えにしわが身かな 浪速のことも 夢のまた夢」の辞世の句を残して亡くなった。
織田信長のように怜悧でも、徳川家康のように堅実でも無かったかもしれないが、誰にも負けぬ艶やかに彩られた花を豊臣秀吉は持っていた。華やかに咲き誇り、時代を飾り、大輪の花を咲かせたまま逝った秀吉と、団鬼六先生が重なった。秀吉の辞世の句が「夢のまた夢」ならば、団先生が度々描かれた閑吟集の句も「一期は夢や ただ狂へ」。
ただ一つ違うのは、晩年の秀吉は朝鮮出兵、利休や秀次を死に追いやり晩節を汚したが、団鬼六先生は最後までアウトロー文学の巨匠であり、性と生を愛し、人間賛歌を歌い続けたまま、その生涯を閉じたことだ。
あちらの世界には小池重明、たこ八郎など団先生が愛し描き続けてきた人たちもいる。酒を酌み交わそうと待っていた人達が――。
夢幻や 南無三宝
くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
(閑吟集)
私はバカで阿呆でロクでもない人生を歩んできた。男に惚れて貢ぎ溺れて狂い、それでも懲りずに正しくない道を選び堕ちることを繰り返してきた。それでも生きてこれたのは、団先生のように理性や理屈を超えた人間の業を描き愛する作家が存在したからだ。人に惚れて狂って、バカにされても非難されても、それが人間なんだからと笑って許してくれる「文学」があったから、生きてこれた。
「団鬼六賞」この冠が、重くもある。書きたいことは溢れているけれど自信なんぞない。相変わらずバカでヘタレで迷い落ち込むばかりだ。それでもこうして「団鬼六」の冠を受けることが出来た御縁というものを信じてこれからも書き続けていきたい。長年、敬愛し続けた大作家の名のついた賞を団鬼六先生ご自身からいただけたのだから。私は間違いなく、幸運な人間です。
最後に、花見をご一緒できて良かった。隅田川沿いの満開の桜を。そして別れ際にかけてもらった「頑張って」という言葉は一生忘れない。
さようなら、団鬼六先生。
ありがとうございました。