たこせん。これからのSNSに求められるのは、本来のコミュニケーションを取る手助けをすること。
コンチキチンが響き渡る中、大勢の人の波で、数センチの歩幅でしか進めない。
京都、祇園祭り。
忌々しいウィルス騒動の中、3年振りの開催だ。
ソーシャルディスタンスなんて言葉はどこへやら、夜店で買ったリンゴ飴が、前の人の背中につきそうな勢いだ。
月鉾の前を通りすぎ、新町通りを南へ曲がる。細い道を両脇から挟むように、夜店が並んでいる。自然と出来た左側通行の人の波に飲まれながら進むと、突如としてスポットライトを浴びているかのような、ぽっかりと空いた空間が目に入った。
まあるい空間と化す直前、浴衣の若い男性がたこせんを投げ捨てたらしい。無惨に割れた、たこせんが道に落ちていた。
異様だったのは、そのたこせんを囲むように、人が口々に発していた言葉だった。
「サイテーー!」
「あぁいうことする人、私あかんねん!許せへん!」
「なんなんあれ!?」
まるでたこせんに同情するかのように、自分なりの正義感を言葉にして、一同はすぐにばらけて行った。
私は浴衣の彼が気になって目で追っていたが、背の高い彼の頭ですら、人混みですぐに見えなくなってしまった。
インターネットが浸透して、今やSNSは手放せないものとなっている。まるで議論をしているかのように、物事に白黒つけなければ気が済まなくなった。それが正義であり、他の人達と同じ意見を持っていると感じさせてくれる、同調と言う名の精神安定剤だからだ。
相手があることも忘れて、きつい言葉を投げてしまう。傷付いている人の存在など、決して見えなくしてしまうのが今のSNSだ。
たこせんに髪の毛でもついていたのか、不味かったのか、連れ合いと喧嘩をしたのか。。。
相手の顔が目の前にないだけで、相手が何を考え、どうしてたこせんを投げてしまったのか。そういう相手を想う時間も経験も失ってきているようだ。
この先、人はもっと我慢をしなくてもいい世界を創っていくはずだ。
仕事にも余裕ができ、忙しさを理由に、人と接する時間までも削ってしまう今とは、真逆の時代が来るのだと思う。
そうなった時。
これからのSNSに求められるのは、リアルな繋がり。
相手の顔が見える距離。実際に接する、同じ趣味を一緒に楽しむような、そんな繋がり。
SNSが本来のコミュニケーションを取り戻す手助けをしてくれるようになるだろう。
お互いを知らずして、受容などあり得ない。
人と人が実際に繋がりを持つ、2次元空間。
きっと、夢物語ではないはずだ。