自分が死ぬほどネガティブだと気がついた注意欠陥女
進学校の中で頭が悪い方の高校1年の愚痴。自己認識は
長所
*ちょっと勉強できる
*楽器の技術がある
・気遣いができる
・行動力がある
短所
・不注意、管理能力の無さ
・メンタル鬼弱
・容姿
・コミュニケーション能力(🐢スピードで改善中)
私の考えでは、*で述べた2つはいつなくなってもおかしくない能力だ。今でさえ人より努力してやっと維持できていると言える。普段は、このふたつについて褒められても、私よりもっと努力している人なんて星の数ほどいるのだからと思い、たまたまだよという。その相手がどう考えても私より努力が足りていない人間だとしても。建前として謙遜するのが普通のことだ。心の中では努力が実って尊敬されて嬉しいと思うのも普通のことなのかもしれない。だが私は、次のテストや演奏でレベルが下がればその程度と思われるのではないか、プレッシャーでしかないし褒めないで欲しい、そんな人間ではないから、と苦しくなる。気遣いや行動力といった結果論でない長所について褒められたらどんなに嬉しいかとも思う。
私の不注意やメンタルは簡単に説明するとADHDやHSPの予備軍とでも言えるのだろうが、あまりこれらの言葉を言い訳に使いたくないという私なりのプライドがある。昔の私ならこの"特性"を許して欲しい、仕方ないと言って欲しいと思っていた。しかし学校や社会で生活する上で、少なくとも本人が一般人の中で周りと協調して活動したいならば、どんなに多様性を尊重しようとしたって限界があると気がついた。所詮そんな"特性"は短所でありその人間は足枷にしかならない。グレーゾーンと呼ばれる人達には失礼かもしれないが、私は障害ぎみだとして失敗が許されてもなにも嬉しくない。むしろ屈辱である。
私がどの程度人よりデバフを抱えているのかは不明だが、少なくとも私の主観では次のように感じる。みんなが笑顔で能力や信頼や名誉という名の積み木を積み、たまに手が滑って少し崩れるのを繰り返しているとすれば、私は1人で必死になって積み上げて、すぐに自分でそれを蹴っ飛ばして台無しにするような感覚である。もちろん実際には私が思っているより努力は実るものだし人からの信頼はあるのだろう。しかし私からすれば、常に自分の努力を、小学生の頃から嫌というほど戦ってきたデバフたちに台無しにされるのを繰り返しているつもりなのだから、劣等感や自己否定感は膨らんでいく一方である。
文章力がなさすぎてまた病みそうになったあたりで涙も引いてきたので止めよう。何が言いたかったのか分からない。結局これも甘えなのだろうか。周りの言う「気にすることじゃない」なのか。
長い文章読むの苦手だからnoteの仕様知らないけど、捨て垢の愚痴を読む人なんているのかな。