【短編】想いは届く、いつかきっと。(5,325字)
「雫、いいね! 一分二十秒」
「はい!」
「昨日は一分二十二秒だった。昨日より二秒縮まっているぞ。自信を持て! いい感じで伸びてるぞ」
「はい!」
雫は揺れる波紋の真ん中で誇らしげに胸を張ると、吉田に白い歯を見せた。
「五十の壁ターンがスムーズになってる。自分でも手ごたえがあるだろう?」
「はい。タンッて壁を蹴ったとき、壁から伸びてきた応援の手がシュンッて勢いをつけて送りだしてくれた感じがしたんです」
「相変わらず脳内お花畑なのな」
雫は嬉しかった。吉田の口から発される言葉は、たとえ雫を揶揄したものであっても悔しく思わない。自分だけを向いて自分のためだけに発される言葉を聞くことが心地良かった。
「真尋は昨日、同じ条件で一分十二秒だったな」
「え?」
雫の顔が一瞬で曇り、刹那歪んだ。
「真尋と……真尋と比べないで!」
「比べてないって」
「今、真尋より十秒遅いって言った!」
「また始まったか……。日本語は正確に使え。真尋は昨日、一分十二秒だったぞって言っただけだ」
「ほら、言ってんじゃん! 真尋より十秒遅いって言ってるのとおんなじだ!」
「全く違うよ」
吉田は大きく息を吐くと、数瞬視線を下に向けた。そうして彼は睨みつけてくる彼女の目を、光のない目で見ながら言った。
「っとにガキのまんまだな。もういいよ。出ていけ。俺は本気のスイマーだけを相手にする」
「わかりました!」
雫は語気を荒らげ一言そう投げ捨てるとプールサイドへすいっと上がった。更衣室へ続くブルーのグレーチングロードをドカドカと音を立てるように進む。吉田の目の前を通過するとき、雫は一瞬あごを引いた。
(呼び止めたって止まってなんかやんないんだから。もう知らない!)
だが、吉田の口は声を発することも息を漏らすこともなかった。屋内プールに響くのは、他のコーチが他の選手を叱咤激励する声だけ。先陣を切っていた肩が急速に下降し始める。そうしていつの間にか雫は耳に全神経を集中させていた。吉田が呼び止める声、吐くため息を聞き漏らさないように。雫は少しだけ吉田が呼び止めてくれることを期待した。歩いている間にかっとなっていた心が落ち着きを取り戻していったのだ。
(そうだ、コーチは比べてなんていない。ただ事実を示してくれただけ。またやらかした、あたし……)
雫の心の中を後悔の嵐が吹き荒れていた。呼び止めて欲しい、そうしたら謝る。しかし吉田が雫の名を呼ぶことはもうなかった。
更衣室で、着てきた高校の制服に着替えると、自転車置き場へと向かった。前カゴに背負っていたリュックを下ろした瞬間、ネクタイをしていないことに気づいた。ロッカーのフックにかけたままのような気がする。取りに戻ろうか、でも……。そう時間をかけずに雫は結論を出す。
(もう二度とクラブの中に入っちゃいけない、入れない。そう、入れないよ)
自転車を引き出すと、自転車にまたがることなく押し歩きながらクラブをあとにした。高校からクラブまでは急な上り坂。雫は毎日立ち漕ぎで一度も自転車から降りることなく登り切ってきた。帰りは下り。自転車にまたがり駆け下りるのが心地良かった。顔を切っていく風が「おつかれさま」と労ってくれているようで嬉しく思っていた。「ううん、全然疲れてなんかないよ」と心の中で返事をしたりして。だが今日は高校の前を過ぎても、その先、家に向かって平坦な道も、なだらかな上り坂も全てを自転車に一度もまたがらず、ただ機械的にそれを押し歩くだけだった。
翌日。雫の、もう二度と吉田のいるクラブへ顔を出せないという悟りに変化はなかった。きっと吉田は雫の顔を見るどころか雫が活動している姿をチラリ見ることですら嫌であろうと。雫は競泳用コースもある市営プールで練習を一人でしていくことにした。クラブはやめた。でも大好きな泳ぎからは離れたくなかった。
ただそれは表面的な感情。心の奥底にあるのは、吉田のこれまでの時間を無駄にしてはならないという思いだった。これまで何度も繰り返してきた失敗。相手の発言を捻じ曲げて受け取ってしまう。自分を邪魔だと思っているのではないかと疑ってしまう。そうして作り出したお化けに怯え、吉田にその不安を怒りという形でぶつけてしまう。その度に吉田は雫を根気強く諭し、許し、支え続けてきた。それがわかっているのになぜだろうか。同じことを繰り返してしまう。
もう謝ることすら許されない。ただ黙って受けた恩に報いること。成長し羽ばたく姿を見せること。それしかない。
――オリンピックに出場して恩返しをする――
雫はひたすらに市営プールで練習を重ねた。今の自分は、オリンピックどころか日本選手権出場資格の標準記録一分十秒突破にほど遠いところにいる。頑張らなきゃ、頑張らなきゃ、頑張らなきゃ。
クラブを離れ、練習場所を市営プールに変えてから一カ月ほどたったある日のこと。更衣室で着替えながら今日やる予定の練習メニューを心の中で確認していた雫はハッとした。
(これって……。タイムすら計ってもらえない。ただ『今日のメニューはやりきったぞ』って自己満足しているだけなんじゃ。こんなんじゃ訓練になっていない。少しも成長に繋がっていない)
雫は天井に埋まるダウンライトを見上げながら唇を噛んだ。
吉田に謝ってチームに戻りたい。これまでどおりに指導を受けたい。でもこれを幾度となく繰り返している。もう謝罪の言葉を聞く耳すら持ってくれないだろう。雫は噛んだ唇をそのままに力を入れて引き結び考えた。そうして。
(よし、決めた。怖がらないで行こう、吉田コーチのもとへ)
市営プールの更衣室で水着に着替え終えていた雫は、その上に着てきたジャージを上下にまとった。そうして自転車にまたがると勢いよく漕ぎだした。クラブ前の登り坂も立ち漕ぎで一気に駆け上がって行った。
自転車から降りるといつも通っていた入口センサーにカードをかざしたが扉が開かない。
「あれ?」
不安を覚えながら一般口のほうのセンサーにカードをかざすと扉はすーっと音もなく動いていった。
「これって……」
開いたドアを進むことができず茫然としていた雫にフロントの受付女性が駆け寄ってきた。
「雫さん。強化選手登録は解除されました。もうあちらの専用出入口は使用できません。吉田コーチから伝言です。水泳連盟の競技者登録は削除した。日本選手権に出場したければ他のチームで選手登録してもらえとのことです。どうされますか? こちらのチームを退会なさいますか?」
「あ、いえ。他になんていきません」
「わかりました。もう一つ吉田コーチからありまして。チームメンバーとしての抹消はしない、このクラブの一般スイマー用プールを使うことは構わないとのことでした」
「……はい。わかりました。ありがとうございます」
吉田から完全に見放された。ショックだった。これまで幾度となくこうして飛び出して、次の日、冷静になって戻ってきていた。いつもと変わらぬ隣の強化選手専用口から入り三階にあるプールへ向かう。するとプールサイドに山吹色のタオルを肩にかけた吉田が立っていて「次やったら放り出すぞ!」と叱りながら、でも頭をポンポンしてくれて。ちょっとだけ今日もそうなるような気がしていた。甘えは許す、でも甘ったれは許さない。吉田の言葉が雫の頭の中をループする。
放心状態のまま受付に背を向け、一般出入り口の自動ドア前に立った瞬間「あ、雫さん」と呼び止める声がした。受付の女性だ。
「これ、ロッカーにお忘れでしたよね」
「あ……」
一カ月前にロッカーに忘れてしまったネクタイ。卒業生だった姉のネクタイがとってあったので、今はそれを着けて通っている。そうしてもう一つ。
「あの、これ、早川さんが?」
「え?」
「写真のパウチ」
「え? あ……。それならきっと」
「きっと?」
受付女性の続く言葉を聞いた瞬間、雫は肩を大きく震わせ嗚咽した。
――吉田コーチかもしれませんね。雫の忘れ物だって持ってきたのが吉田コーチでしたから――
ロッカーのドア内側にマグネットで貼っていた昨年の春季記録会のときの写真。雫と吉田のツーショット。下を向き泣きじゃくる雫と、雫の頭に山吹色のタオルを被せ、その上に手を置き優しい眼差しで雫を見つめる吉田の画。練習以外で初めて泳ぎ切った百メートル。始めて公式記録を取ってもらえた試合だった。記録は一分四十秒。二人ともちっともカメラ目線ではないこの写真。写真係さんの選別のときに破棄されそうだった直前で雫が気づき印刷してもらったものだ。印刷し終えたところでちょうど吉田が通りかかり、「なんならサインしようか?」と、写真に黒ペンでサインを入れてくれた。『目標、標準記録一分十秒突破。頑張れ、雫 YOSHIDA』
雫はクラブ一階の更衣室で唇を噛みしめながらジャージを脱いだ。もう自分の名の入ったロッカーはない。誰がどこを使っても構わない一般用だ。あの写真をロッカーの扉に貼ることは二度とできない。雫は静かに、手に持っていた吉田とのツーショット写真をリュックに入れる。
他のチームへ移ることなんて選択肢に入れられない、雫の思いははっきりしていた。
(あたしの恩師は吉田コーチ。吉田コーチ以外を恩師と呼びたくなんてない)
ただ……。一階で泳ぐしかないのならタイムも計ってもらえない、誰も指導してくれない。それだったら市営プールで泳ぐのと変わらない。ここだとこれまでのいきさつや騒動を知っている人たちの目もあって居づらい。
(どうしよう。市営プールに戻ろうか……)
雫は水着姿のまま特に焦点を定めることなく、しばし無機質に並ぶロッカーの列を眺めていた。そして葛藤した雫は答えを出した。焦点を更衣室出口へ合わせ歩き出す。その先に広がるのはクラブの一般スイマー用プール。
(こっちのプールでこれまでの教えを思いだしながら泳ぎ続ける。吉田コーチへの謝罪と感謝の気持ちを抱きながら。きっと伝わる。いつかきっと)
雫がこのチームにしがみつき出入りしている様子を、チームメイトたちは憐みの目で見ていた。失笑や嘲笑が漏れ聞こえる。
(全部自分が蒔いた種だ。彼女たちの信頼を取り戻す方法があるとするならば、それは一つ。あたしが本気だってことを行動で見せ続けること)
雫は自分の目標に向かって自分に課題を課し、必死でそれを遂行し続けた。
半年ほど経ったある日のこと。「おはよう」の声が後ろから飛ばされた。
「あ、おはようございます」雫は丁寧に挨拶を返した。吉田にいつも注意されていた。
「上から目線に感じるんだよな。なんだろうな?」
「普通に会話してるだけなんだけどな。上から目線?」
決してそんなふうに思っていたわけではない。だがそういう空気を感じさせていた。あのころの自分の過ちを今の雫はわかるような気がしていた。
心の奥底にあったように思う。人と関わり合うのは嫌い、嫌だ、面倒くさい。だってみんな、心の中では「雫となんて関わりたくない」と思いながら付き合っているのでしょ、という疑いの思いが。
雫の水泳にかける情熱が、また入れ替えた心がチームメンバーに伝播していったのだろうか。いつしか一階プールの雫の登場を嘲笑う空気が、頑張れという応援の空気へと変わっていった。
雫は許し受け入れてくれた仲間との交流が再び始まり、幸せを覚えながら泳ぐという楽しみを経験していった。タイムの計りっこをすることも当たり前となっていった。
「雫、すごいすごい! 一分二十五秒!」
「ありがとう。一分二十秒前半まで持っていきたいな」
「行けるよ! だって昨日は一分二十七秒。昨日より二秒縮まっているんだもん」
それを聞いた瞬間、雫は水の中に立ったまま顔を両手で覆うと声を上げて泣いた。
「し、雫? 私、変なこと言っちゃった? ごめん、ごめんね、雫」
「ううん、違う。違うの。ごめんなさい、なんでもないんだ」
雫はドボンと大きな水音を立てて水の中に潜ると膝を抱えてだるまになった。目を閉じ、膝を抱える腕に力をこめる。深淵へと沈んでいきたいのに力を入れてもなお、体は水面を浮き沈みするだけ。
「ぷっはー。ああ、気持ちいい。何ごとも初心が大事よね。みんなやらない? だるま浮き」
「いいね! やるやる」
その場にいた全員がプールに飛びこみ膝を抱えた。あちらこちらに浮き沈みする背中が見えた。思わず雫はクスリと笑った。
「よーし、あたしももう一回!」
雫も再び膝を抱えて浮かんだ。
高層階に呼ばれない。それはすなわち日本選手権どころか、記録会にすら参加することができないということ。雫はそれだけのことをしでかした。自覚がある。申し訳なかったと心から思っているが謝りにはいかない。口先だけ、同じことの繰り返し、そう思わせてしまうだけだから。
雫は今日も一階プールで自分に課題を課しそれをクリアすることを目標に泳ぎ続ける。ここにいる同志たちと支えあいながら上を目指して。
(もう裏切らない。今ここにいる仲間のことも、心の中にいるコーチのことも。教えを活かして成長していくんだ)
きっといつか伝わる。本気の想いなんだもの。いつかきっと。
(了)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?