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水道橋『サウナ アスカ』閉店がブームに問いかけるもの

 神よ、あなたはなぜそんなにも無慈悲なのですか……?

 水道橋の名店『サウナ アスカ』が閉店すると知ったときは、絶望感に打ちひしがれて膝から崩れ落ちそうだった。前日にはチャーリー・ワッツの訃報に触れ、おまけに月次支援金も締め切りをうっかり忘れて2ヶ月分もらいそびれた直後だったから、弱り目に祟り目とはまさにこのこと。もはや人生に希望を見出すのは至難の業である。

 大学在学中から今はなき水道橋の老舗弱小出版社でバイトしていた私は、卒業後、そのままスライドするようにして正社員として働き始めた。その会社・桃園書房では給料が激安なわりに激務が続いた。でも出版業界で生きていくために必要なスキルはほぼすべてこの時代に教わったので、後悔はまったくしていない。それどころか、今でも感謝している。

 まぁそのことは別にいい。当時、私が制作していたのは『問題実話』という月刊誌。校了前は徹夜作業が続くことになるのだが、そこでお世話になったのが『サウナ アスカ』だった。朝4時から料金が安くなるので(深夜料金ではなくなる)、いつも入店するのはそのタイミング。まだケツの青かった私の目には『サウナ アスカ』が大人の社交場として輝いて映った。水道橋という土地柄、目をギラつかせた競馬客が多かった気がする。

 桃園書房の先輩から教わったのは、「『アスカ』の食堂では豚キムチとニラ玉を注文すべし」ということ。この先輩は仕事ができないくせに口ばかり達者なので内心は軽蔑していたのだが、『アスカ』に関してだけは鋭い発言を連発した。実際、入浴後にウーロンハイで一杯やりながら食べる豚キムは幸福の味がした。魂が浄化されるようだった。当時はベースボール・マガジン社も水道橋にあったので、食堂の雑誌コーナーには『週刊プロレス』が置いてあり、最新号をダラダラ読みながら眠りにつくのである。

 サウナ施設としての『アスカ』は極めてシンプルで、とりたてて特筆すべきような特徴はなかった。「Bodyが浮上する…!」と謳われたラドン風呂。超音波風呂は街の銭湯に毛が生えた程度の大きさ。そして水風呂にサウナ。だが、その必要最低限に抑えられたシンプルさが心地よかった。サウナの室温は熱かった。私はサウナ好きということに関して人後に落ちないが、この20代での『アスカ』体験が礎になっていることは疑問を挟む余地もない。

 その後も『サウナ アスカ』は自分の人生と常に隣り合わせにあった。桃園書房を退職してからは竹書房という会社で働き始めたが、ここも当時は飯田橋にあったものだから『サウナ アスカ』がオアシスとして機能。あのあたりは他にも出版関係者が数多くいて、ミリオン出版(現・大洋図書)の編集部員が食堂で企画会議をやっている光景を目撃したこともあった。フルチン姿のターザン山本とラドン風呂で遭遇したこともあったし。

 それにしても、だ。これだけサウナブームが騒がれる中、なぜ昔から愛されていた名店が閉店せねばならないのか。

 コロナ禍に入ってから顕著になった街の衰退は、要因として確実に挙げられる。東京ドームや後楽園ホールがある水道橋は“スポーツ城下町”として栄えてきたが、プロ野球やプロレス興行の収容人数制限、それに加えたイベントの減少で一気にゴーストタウン化してしまったのだ。

 そして、もうひとつ。『アスカ』が昨今のサウナブームに便乗できなかったという面もあるだろう。逆にいうと現在のサウナブームの実態はメディアやネットの情報に踊らされている「にわか愛好家」ばかりで構成されており、オールドスクールだが良質なサウナ施設はないがしろにされているのだ。サウナを一過性のブームで終わらせないためにも、本来は『アスカ』のような地に足の着いた施設に光を当てるべきだった。そこはまがいなりにもメディアに関わる人間の1人として真摯に反省したい。

 愛し続けた『サウナ アスカ』の閉店によって、私の青春という季節はいよいよ終焉を迎えることだろう。店は9月10日まで営業するという。

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