あこがれのコーヒーブレイク
寒い朝、目を細めながらズズズとコーヒーを飲む友人。大きな商談を終えたばかりなのか、ルノアールとかで満足そうにコーヒーカップを傾けるサラリーマン。夕暮れ時のコンビニ前、慣れた手つきで缶コーヒーを開けるガテン系労働者。そういう姿を見ていると非常にうらやましくなる。きっと美味しいんだろうなと思う。私はコーヒーが飲めない。
より正確に表現すると、コーヒーを口にすることはかろうじて可能。だけど、ひどい胸焼けを引き起こす。そして腹を下すのだ。
仕事先でコーヒーを出されることもあるが、「あっ、すいません。俺、コーヒー飲めないんですよね」と気まずい感じで説明する。相手が自分のことをお子様扱いしているんじゃないかと思い、正直ものすごく恥ずかしい。だからたまに見栄を張って、何食わぬ顔をしたまま飲むこともある。そういうときは必ずあとからトイレで大後悔だ。
たぶんカフェインが身体に合わないんだと思う。車を運転していて眠くなると、仕方なく睡眠打破とかを飲むが、猛烈に気持ち悪くなる。あれは本当に最後の手段だ。でも、緑茶はそこまで苦手でもない。考えてみたらコーラとかレッドブルにもカフェインは入っているわけで、それが平気ということはカフェインアレルギーではないのかもしれない。
子供の頃は、自分がコーヒーを飲めない大人になるなんて思いもしなかった。マックスコーヒーが大好きだったからだ。マックスコーヒーはジョージアの軍門に下ってから明確に味が変わった。昔はもっと甘ったるかったのだ。これは40代以上の千葉&茨城出身者じゃないとピンと来ないかもしれないが、本当のことである。コーヒー本来の深みなどマックスには求めていない。はっきり言って、今のマックスコーヒーは完全に堕落している。変節したマックスコーヒーに、私のほうから三行半を突きつけてやった格好だ。
禁煙に成功したときは、これでスタバで仕事ができるとうれしくなったものだった。店内でノートパソコンを広げている人たちは、なんとなく仕事ができそうだし、おしゃれな感じがする。私はひそかにその姿に憧れていたのである。でも実際はコーヒーが飲めないくせにスタバに居座ると、どうにも納まりがよろしくない。酒が飲めないのに1人で居酒屋にいるような感覚に近いのかもしれない。
そんな私が紅茶に没頭していったのも当然の話だろう。現在、家ではもっぱらDO GHAZALというスリランカのアールグレイを愉しんでいる。新井薬師前のイラン料理屋『おつかれさん』で教えてもらったブランドだ。私はこれを小伝馬町の『ダルヴィッシュショップ』というイラン食料品屋でまとめ買いする。
もう3時を過ぎた。そろそろ深夜のティータイムだ。誇り高き英国紳士のように優雅に紅茶を嗜みたい。ティーパックをポットに入れ、熱湯を注ぎ5分待つ。そのままストレートで飲むと、芳醇な薫りが口の中に広がっていく。ひとつの幸せのかたちが、ここには確実にある。
(2019-11-21:初出)