深夜のひとりごと#02
才能のことをギフトと呼ぶことがある。才能は生まれ持ったものだから、いわば神様からの贈りものという意味である。
誰しも自分の「ギフト」について考えたことがあるだろう。
私の場合、特に10代はいつも人の「ギフト」を羨んでいた気がする。むしろ、人の「ギフト」にしか目がいかなかった。
「頭が良くていいな」
「運動神経が良くていいな」
「可愛くていいな」
「スタイルが良くていいな」
…
私の「ギフト」ってなんだろう。人と比べると特に秀でている部分がない。逆に全てが中途半端で平凡に思えた。そもそも平等に「ギフト」なんて与えられているのか。キラキラした「ギフト」を持つ人たちがずっとずっと羨ましかった。
私が自分に与えられた真の「ギフト」に気づけたのは、実はつい最近のこと。入院がきっかけだった。突然の体調不調、緊急入院。何もかも初体験だった。
約9日間の入院。うち半分はご飯も食べれない。食べたくない。これも人生初。どんなに体調を崩しても食欲だけはあった。生まれて初めて点滴をして、生まれて初めてMRIも取った。
点滴があんなに邪魔なことも、点滴の針が抜けると腕がパンパンになって痛いことも、体が弱ると気持ちまで弱ってしまうことも、31年間知らずに生きてきた。
その時に気づいた。「ああ、私ってものすごく恵まれていたんだな。」
生まれた瞬間こそ、いきなり緊急搬送されるイレギュラーはあったものの、その後はとにかく健康だった。大きな怪我も病気もすることなく、病院とは無縁。思春期以降はどんな激務でも肌が荒れることもなく、食べ物アレルギーも無し。乗り物酔いもしない。毎日のようにそれなりの量のお酒を飲んでもすこぶる健康だった。
それは私にとっては当たり前だけれども、実は当たり前ではなく、すごく恵まれていることだったのだ。目立つような「ギフト」ではないけれども、実はとてもとても大事な「ギフト」を神様は私に与えてくれていた。
思いつきでスキューバダイビングを始められたのも、海外旅行が好き!と言えるくらい気軽に海外に行けることも、部活で肺が潰れそうになるまで走り込めたことも、健康な体があったからこそ出来たこと。
健康や体に不安があると、どうしても制約がかかること、自分ではどうにも出来ないリスクが伴うことがあることも、考えたことすらなかった。
きっとこの楽天的な性格も、自分の意思でどうにか出来る環境にいたからこそ得られた長所なのかもしれない。
「『健康第一』、なんて最低限で当たり前のことじゃん。」
神社のお守りや絵馬を見る度に、捻くれていた10代の頃は本気で思っていた。願う、祈るに値しないこと。何でそんなことをわざわざお願いするのだろう、と当時は不思議だった。健康は私にとって当たり前過ぎたのだ。
30代になった今、その当たり前の「ギフト」に本気で感謝出来るようになった。そして種類に限らず、「ギフト」は大事にしないと損なわれてしまうものなのかもしれないと気付くことが出来た。
当たり前は実は当たり前ではないことを知ってからは、「人は生まれながらに特別」という言葉が腑に落ちるようになった。ちょっと前まではそんなのただの綺麗事だと思っていたのに。
誰しも「ギフト」を与えられて生まれた、唯一無二の特別な存在。そう思えると、人や世界への見え方が少し変わってくるから不思議だ。
皆さんの「ギフト」は何ですか?