ALSの記録を綴る
このnoteは昨年の年明け(1月中旬)に父が亡くなった後、当時途中まで作成していたものを最近になり書き上げたものです。纏まりのない文章になっていますが、ALSに関して皆さんに何かしら伝えることが出来れば幸いです。
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先日は筋萎縮側索硬化症(以下、ALS)のため長い闘病の末に亡くなった父のツイートにたくさんのレスポンスを頂きありがとうございました。
不治の病として度々ドラマにも出てくるこのALSについて、父の一例のみですが「こんな病気なんだよ」というのを書き綴っていきたいと思います。
特に後半の内容は読むのが辛い方もいらっしゃると思いますので苦手な方は無理しないでください。出来るだけありのままを書いていこうと思います。
まず、最初の発症時は父はまだ働いていました。その時に聞いたのは
「左腕に力が入らない」
とのこと。仕事を休むという判断にはならず片手で車を運転して仕事場に行っていたようです。
※当時から亡くなるまでずっと両親の2人暮らしでした
その後、状況に変化はなく担当していた仕事の契約期間を全うした後に隣町の比較的大きい病院を受診。そこで出た診断は
「首の神経が集中するところに問題があると思われます。手術をしましょう。」
で、手術を含め約1ヶ月入院しましたが、当然ながら症状には変化がないままでした。
その後、実家から少し離れたところにある大学病院で診察を受けることになり、ここで初めてALSの診断が出ました。この場面には自分が立ち会ってはいないので詳細は把握していませんが、この頃には右腕の力もみるみる低下していたので両腕から部分的に発症したALSとのことでした。
病気が病気だけに兄夫婦も自分夫婦も衝撃でしたが、たまたま自身の伝手でセカンドオピニオンの段取りが出来ることになり、両親に東京駅まで出て来てもらい都内にある別の大学病院へ。筋電図などの検査をしたと記憶していますが、診断はやはりALSでした。これが約7年前(2014年頃)かな?
まだこの段階では割と元気で、食事こそ不便そう(初期は専用の箸を使用、その後母が食べさせる形に)でしたが、ほぼ問題なく動く足でリモコンを動かして好きなテレビを観たりしていました。
ちなみにALSは完治する治療法がないのが現実ですが、病状の進行を遅らせる飲み薬はありそれを毎日服用していました。
とはいえ、やはり病状の進行は避けられませんでした。しばらく経ち家族で見舞いを兼ねて帰省していた時のこと。自分たち家族は2階で寝ていたものの、夜中3時頃に妻に「下から音がする」と起こされました。
階段を下りてみると、廊下で体勢を崩して動けないでいる父の姿が。トイレに行こうとしたもののバランスを崩してしまい倒れ、手はもちろん足にも十分に力を入れることが出来ず動けなくなるまで病状が進行していました。
その後またしばらく時間が経ち、日々の生活の中で喉に絡まった痰が呼吸を難しくしてしまう(痰を飲み込む力が十分にないため)ことが増え、ついに喉を切開して気道を確保、栄養は胃ろうを作りそちらからという形になり寝たきり生活に移行しました。
この頃になると要介護の認定レベルも1番重度のものになり、自宅にお医者さんやヘルパーさんがかなりの頻度で来て頂ける形に。とはいえ、日に何回も行う痰の吸引は主に母が行っていたので母の介護の負担はかなりのものでした。
そして、父の体調で1番の課題は肺でした。若い頃からヘビースモーカーだったこともあり肺の状態がALS発症前から思わしなく、肺炎から発熱して体調を崩すことが多かったです。その体調不良に打ち勝つだけの体力も十分でなく1回入院するとなかなか帰宅(退院)出来ませんでした。
そこにコロナ禍の発生です。入院すると母ですら面会が著しく制限され、着替えを届ける時に看護士さん経由で病状を聞くのがやっとでした。自分達家族も足を運ぶことが迷惑になってはいけない(コロナはもちろん風邪などのリスクもあるため)と会いに行くことも叶わず。
少し話が逸れますが、父から見ると子供は息子2人(自分は弟です)なのもあってか、自分のところの娘2人とのコミュニケーションは楽しそうでいかにもジジバカでした(笑)ただ下の娘は1歳になる少し前にコロナ禍に入ってしまったため会うことすら叶わない日々はこちらも辛かったです。
父が亡くなる約3ヶ月前、入院が続いていた父について我々(主に母)に決断が迫られました。それは体調が思わしくない中で、入院を続けるか自宅での療養に切り替えるか。
前者を選ぶと医療体制としては安心材料はあるものの、コロナ禍の病院方針もあり例え危篤状態に陥っても面会が叶わず最期に立ち会えない可能性が高い状況でした。それならばと、父にも意向を確認し退院しての自宅療養を選択。
最後の3ヶ月は若干の意思疎通は出来るものの、完全な寝たきり状態で母も気が抜けない日々が続いていたと思います。
そんな中、11月に自分だけですが様子を見に帰省しました。これが生前の父に会えた最後の機会でした。
父の目の前にiPhoneを持っていき、FaceTimeで東京にいる娘たちとビデオ通話の形にして顔が見えて声も聞かせることが出来ました。その時の父はいつになく意識がはっきりしていて、目をカッと見開いてiPhoneに映る孫娘2人の表情を目に焼き付けていました。
ALSという病気は頭の中の考える機能・記憶する機能にはほぼ影響が出ません。なので、進行する病状を受け入れるしか選択肢がないことは周りが思う以上に精神的に辛いものだったと思います。
ただ、最後の最後まで強く生きて、50年近く寄り添った妻(母)に看取られたのはささやかだけど幸せなフィナーレだったのではないでしょうか?
うまく文章の最後を纏めることが難しいですが、これからはこの数年父の介護を必死に頑張った母にしっかり親孝行をしていこう、という思いを記してこのnoteを終わりたいと思います。長い文章になってしまいましたが、目を通して頂き有難う御座いました。