ずっと日本を出たかった私が、今オーストラリアで思うこと
そもそも、なぜ英語を勉強し始めたか。
これは一番最初の自己紹介でも書いた通り、ハリー・ポッターへの憧れが一歩目だ。
ハリー・ポッターの世界に浸かれるだけ浸かりたい。
その為には原文で読んでみたいし、書かれたイギリスへ行ってみたい。
他の物語はどうだろう。英語で書かれた(そして翻訳された)ファンタジーをたくさん読んだ。なんて素敵な世界だろう!もっともっと深く浸かるために、私には英語が必要だ!!
そのうち海外(西洋)文化にも興味を持ったり、洋楽を聴きだしたりする。
なんとなく英語が分かってくる。分かってくると楽しい。もっと勉強していく。英語が得意だ。テストの点も良いし。みんなも私が英語が得意だって思ってる。
将来は海外移住かな?
旦那さんは外国人かな?
そんなことを言われることも増えてきた。だんだん自分でも、そうかもしれないと思い出す。海外移住、出来たら良いな。きっと外国人と結婚するかも。外国人の方が私を人間として見てくれそうだし、しっかり話し合いをしてくれそうだし、優しそうだし・・・。
外国の方が優れてることが多い。
日本って、こういうところが駄目だよね。
外国って日本と比べてこういうところがある。
外国人は、日本のこういうところが好きで、これが嫌いなんだって。
洋画の方が面白い。邦画は見ない。洋楽の方が好き。本も、翻訳されたものを読む。アプリを使って、世界各国の会ったことの無い、会うことの無い人と英語で話す。今日、アメリカ人がね、ロシア人からこう言われて・・・。
・・・なんか、こういう感じ。
いつか外国に行くかも知れないと思って、独学での勉強もずっと続けた。
専門学校で歯科衛生士になることを選んだのも、
「手に職があれば、仕事を辞めて外国に住んでもし帰ってきても働ける。好きな働き方がしやすくなる」
という母のアドバイスを受け取ってのこと。
専門学校でも
「私は卒業後少し働いたら海外に行く」
と豪語していた。
卒業後、働きながら勉強していたのは前述の通りだ。
ある日、とても可愛いノートを買った。
私は文房具が大好きだ。特に可愛いノートに目がない。
でもこれ、どうやって使えば良いか分からない。
何か良い案は無いですか、Google先生。
私は検索して見たいくつかの案の中で、とても素敵なノートの使い方を見つけた。それは、
毎日1,2ページ、興味があることについて調べてまとめる
というもの。なんと素敵なアイデアだろうか!!
私は毎日英語学習にあてる時間を、そのノートを書くことに費やすと想像する。何を調べよう。毎日するのだから、とても些細なことが良い。例えば今日食べたじゃがいも。じゃがいもの育て方、栄養、歴史、種類、レシピ・・・。毎日小さな知識を得ていく。これってとっても楽しそうだ。
本を読みたい・・・とびきり面白い小説、笑えるエッセイ、漫画に雑誌。最近歴史物も気になっているし、歴代本屋大賞を順番に読んでいくのもやってみたい。
アニメや映画、ドラマを見たい・・・おすすめしてもらったアニメ、結局見れてない。アマプラのリストは長くなるばかり。それにしては、英語を勉強するために特に興味の無いアメリカのドラマを見ながらメモを取っている。まあ、面白いっちゃ、面白いけど・・・。アマプラだけじゃなくてネトフリも見たいけど、今の感じだとどうせあんまり見ないだろうし。
そうするうちに、今まで興味の無かった美術や音楽にも触れてみたいと思うようになった。
一日の内限られた「自由時間」を、どう過ごすか。
英語さえ無ければやりたいこと、が増えていく。
ほぼ、強迫観念のように英語学習を続けている。
唯一頭に浮かんだのは、
”いつか海外に住むかも知れない”
この思い。
”憧れの海外に住んで、そこでパートナーができたり仕事をするかもしれない”
この思いこそが、私の英語学習を続ける要因だけでなく、生活全般の決断を決めていることに気付いた。
いつか日本を出たい。
海外への憧れ、日本文化への嫌悪感、英語の自負、日本の自然災害への恐れ・・・
そういうのが相まって、いつか海外へ脱出する、という考えがあった。
わざわざ生きていてしんどいところに居続ける必要ないじゃん、と思っていた。
いつかここから居なくなる、という思いは、今現在への生活をゆるやかに怠惰にさせる。
仕事だって、ずっとするわけじゃないんだし。
恋人も友達も、作ったって離れるかもだし。
可愛い家具も服も雑貨も、全部持って出て行けるわけでもないだろうし。
そんなことよりも、英語を勉強した方が将来のためになるでしょう。
行くかもしれないんだから。
そして、それが英語への焦燥を煽る。
もう日本を出る道しかない(気がする)のに、それに必要な英語にどうしても到達できない気がする。
知らない単語ばっかり。
映画もドラマも、聞き取れない。
「英語が好きでできる人」というキャラ立てがあればあるほど、焦りは募って、”他のことがやりたい”なんて思ってはいけない気がしてくる。
他のことは、生活が落ち着いてからにしよう。
老後でも良い。
いつでも出来ることだから・・・。
そんな中で、色んな人と出会った。
今の仕事を頑張って、未来へ続けていこうとしている人。
将来を考えてキャリアチェンジをする人。
新しい趣味を見つけて楽しんでいる人。
やりたいことを仕事にして、事業を始めた人。
私が逃げたい日本で、私が縋ってる英語もなしで、みんな楽しそうにやっているように見えた。何かに挑戦して、今のことに一生懸命になれる。
日本の方が劣ってるとか外国が勝ってるとか、そんなことは考えていない。それがすごく羨ましく見えた。今の生活がどうせ終わるなんて考えず、未来に押しつけないで今を生きているように見えた。
一度、英語をセーブしてみよう。
私は英語を1日30分くらいにして、他の勉強をしてみた。
目標があると頑張るので、資格取得をメインに。FPからスキンケア、化粧品、栄養に関して勉強をした。
全て日本語で行い、これまで時間を費やした英語なんて全く必要では無かったけど、生活に役立つ勉強が出来た。単純に、知識を身につけるのが楽しかった。
ふと立ち止まる。
「日本から出て行かないと負け
みんなも私も、私に期待してるんだから」
みたいに思っているけど、本当にそうなのだろうか。
期待してるのは、焦ってるのは、自分だけなんじゃないか。
仕事も生活も、そろそろ本腰入れてやりたい。
海外に本当に住みたいのか、ちゃんと確認したい。
そういう思いで、私はワーホリを決めた。
メルボルンに来て2ヶ月ほどが経つ。
たくさんの刺激がある中で、私の「英語との向き合い方」を考える時間も増えた。私にとって英語とは何で、実際今どう思っているか。
ちょっとお話していきたいと思う。
メルボルンに来て最初の印象であり、ずっと持っている思いとしては
「思ったより驚きが無い」
ということ。
こっちに来る前から「メルボルンは東京に似てる」とネットに書かれているのを見ていたけれど、本当にそうだと思う。東京というか、全般的に都会に行って感じるものをやはりメルボルンでも感じる。
たいていのことは、英語を大して理解せずともなんとかなるように出来ていると思う。多様な人のために作られた街は、基本的にどこも同じようになっていると感じる。
街以外にも、「驚きが無い」点がある。
自分である。
もっと英語ができないことに対して、あるいは英語漬けの環境に対してストレスに感じることが増えるだろうと思っていたけど、今のところ案外何も感じていない。
もちろん仕事をし出したらまた違ってくるんだろうとは思う。
でも、少なくとも学生である分ではそれほど大問題にならないんだなと感じた。
逆に、英語を話せて毎日幸せ!というわけでも無い。
あんなに勉強しておいて、意外と感情の変化が無いもんだ。
「英語を話す」というより、「勉強したことで物事の理解が深まる」という過程が好きなのかも知れない。
「英語の勉強が好き」
「異文化が好き」
「英語で誰かと話すのが好き」
「英語で音楽や映画を楽しむのが好き」
これら全てひっくるめて「好き」だと思っていたけど、それぞれ結構差があるかも。
何がどれくらい好きかで、私に必要なものも違ってくるよなあ。
英語に浸って初めて、そんなことを考えてみた。
そして、もうひとつ気付いたこと。
メルボルンの人は、他人に声を掛けることにためらいが無いな~と感心することが多い。
ありがとう、とか、どういたしまして、すみません。
この辺、スーパーとか電車でするっと言えちゃう。
例えばちょっと道を避けた時とか、後ろの人が見やすいように少し脇に寄ったりとか、そういうとこで声を掛け合うことが新鮮に感じた。
日本だとお互い無言で完結することが多いと思う。
道に迷っている時に「どうしたの~?」と声を掛けてもらうこともよくある。
驚いたのが、大きな荷物を持ってトラムに乗ってきた女性が、降りるときに他の男性客に向かって「私の荷物下ろしてくれない?」と普通に頼んでいたこと。そしてそれを男性も普通に受け入れていたこと。
日本だと明らかに「え?」という顔をされると思うんだけど、助けを求めるのも気軽にできちゃうんだなあ。
他人と関わるハードルの低さで言えば、日本とは比べものにならないかもしれない。
とはいえ、オージー曰く「メルボルンは特にそういう雰囲気がある。シドニーに行くともっと人も東京っぽいよ」とのことなので、オーストラリア全体がというわけでなく、あくまでメルボルンの特徴なのかも知れない。
ただ全体的に見ても、やはり渡豪前に想像していたような大きすぎる文化の違いにぶち当たる、ということはそうそうない気がする。
「これは理解できない!」
となるより、「言語が違うだけで結構似たようなこと考えてるんだな」と思うことの方が多いと思う。
次に、カフェたくさんあるけど意外と行けない、ということ。
メルボルンはコーヒーの街。みんな、朝はコーヒー片手に歩いている。
そんな街なので、カフェを開拓しようと息巻いたのだが、なんとびっくり。
カフェ、15時には閉まる・・・!
早いところだと14時頃に閉店するので、学校終わりにカフェはしご、ということはほぼ出来ない。
ただ、最近解決策を見つけたのだけど、ずばり単純に早起きすれば良い。
どのカフェも朝7時頃から開いているので、メルボルンでは朝型の生活がカフェ巡りに向いていることを知った。
ちなみに、メルボルンに数多あるジェラート屋は夜遅くまで開いていることが多い。夜にゆっくり甘いものを食べたい気分の時は、ジェラート屋を探すことを強くお勧めする。味もめちゃくちゃ美味しい!
食に関して言えば、メルボルンには「オーストラリア食」というものがほぼ無い代わりに、多国籍なレストランやスーパーがたくさんある。
私もいくつか日本食を食べたけど、ほとんどが現地の日本人が作っているのでとても本格的な味で美味しかった。
今はホームステイ先の食事を食べることが多いが、自炊をし出したら日本とあまり変わらない食事が食べられると思う。
次に、これはメルボルンというわけではなく、私自身のことについて話していきたい。
私は今語学学校に通っていて、人生の国際色のピークを迎えていると思う。
語学学校には色々な人がいるが、特に多いのが南アメリカ(ブラジル、チリ、コロンビア)、タイ、台湾、トルコ人、そして日本人。
(もちろん学校にもよると思う)
異文化理解の観点からか、授業でも自身の国を紹介するテーマも多く、友達同士でも「私の国はこう。あなたは?」といった話をする機会が多いが、その中でもちょっと驚いたことがあった。
それは、「自分の国が好き。いずれは帰りたい」と口に出して言う人が多いこと。
上記にお話ししたとおり、私は英語を勉強する上で、いつも他文化と日本を比べ、日本を脱出してやる、くらいに思って生きていた。
それに最近ネットでは「日本はオワコン」といった風潮も強くなってきていると思う。
海外に脱出すれば勝ち組、みたいな言葉もよく聞く。
私は、「日本が大好き!」と言えなかった。
こんなに問題が山積みで未来の無い国が大好きなんて、ちゃんと物を知っていないみたいで恥ずかしくて言えないとすら思っていた。
日本から出て、”避難”した方が頭の良い選択だと思っていた。
え、みんなはそうじゃないんだ・・・。
自分の国に問題があることを指摘し、オーストラリアに比べると賃金も低く治安が悪かったとしても、それでも「私は自分の国を愛している」と胸を張って言う人たちに、私は本当に考えさせられた。
外国にばっかり目を向けていたけど、本当に日本を出るのが正しいのだろうか。
日本から逃げるしか、道は無いのか。
渡豪前からうっすらと思っていたことが、心の中で大きくなっていく。
私は、たぶんメルボルンで生きていける。
生きていくだけなら、出来る気がする。
歯科助手かクリーナーにでもなって。
生きていくのに必要なお金を稼いで、食べて、寝て。
でも歯科助手もクリーナーも、やりたいって訳じゃ無い。
日本にいたら、チョイスしないだろう。
ではなぜそれらかと言われたら、それくらいしか出来る仕事が思いつかないからだ。それでも今の英語力だと怪しいが、いずれにしろ "出来る仕事" と "やりたい仕事" のギャップが大きく見える。
というかそもそも・・・
日本から出たいだけで、海外でやりたいことなんて無いじゃん。
逆に考えてみてはどうだろう。
日本でも、私は生きていけるだろう。
でも更に、家族のそばに居ることで、彼らに何か出来ることもあるかもしれない。
生きていけるだけじゃなくて、挑戦したい仕事もできた。
仕事を通じて、他の人の人生や幸せに少しでも関わることができるかもしれない。
私だけじゃなくて、誰かのより良い人生のために時間を使えるかもしれない。
確かに、オーストラリアで働くより給料は低いだろう。
ワークライフバランスも、そこまで期待できない。
長期の休みだって圧倒的に少ないだろうし。
でも、やりたい仕事があるって素敵なことじゃないかなあ。
私は日本の自然災害が一番怖くて、逃げ出したい。
でも、逃げ出さないとしたら。
向き合ったとしたら。
そこに誰かがいるんじゃないだろうか。
私の知らない人たちが、自分と誰かの命を守ろうと行動を起こしているかもしれない。逃げるかわりに、そういうことができないだろうか。
私、もっと日本を好きになりたい。
好きな場所で、生活を送っていきたい。
それは、海外を好きになるために頑張るわけでも、頑なに日本のあら探しをするわけでもなく。
私が生きやすいところで、今の人生を大切に生きたい。
未来のためじゃなくて、今の自分のために、誰かのために生きたい。
いつかの為の英語、やめたい。
好きなこともしよう。
ノートも書こう。
映画も見よう。
本も読もう。
料理もしたい。
友達も、できれば恋人だって作りたい。
トークアプリの友達より、実際に会える友達がほしい。
いつかやめる仕事じゃなくて、打ち込める仕事をしたい。
”いつか終わる”じゃない生活をしよう。
自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、
後ろめたく思う必要はありませんよ。
サボテンは水の中に生える必要はないし、
蓮の花は空中では咲かない。
シロクマがハワイより北極で生きる方を選んだからといって、
だれがシロクマを責めますか。
私の大好きな本、「西の魔女が死んだ」の中で、おばあちゃんが語ってくれる言葉。
私の指針となる言葉だ。
私はシロクマだ。
ハワイに憧れていた。
でも、改めて北極で上手く生きていくことはできないだろうか。
今までの「英語」というアイデンティティをなくすのは少し怖い気もする。
私には他に出来ることがないから。
でも、まだまだこれから、と思う気持ちもある。
これからもっと、私は新しい私を見つけたい。
メルボルンに来ての心境の変化は、ゆるやかに確実に、私の心を明るく、強く、透明にしている気がする。