鶴丸国永について
墨染駅から徒歩5分ほど、京都の観光地からは少し離れた場所にある藤森神社。
宝物庫には「太刀 鶴丸国永の写し」が奉納されています。ほぼ常設で展示されており、神社の雰囲気も好きなので、年に何度かお参りしています。
鶴丸国永の逸話といえば「霜月騒動で安達一族が滅ぼされた際に北条貞時が墓を暴いて手に入れた」という説があるのですが、この話のソースが気になったので、調べてみることにしました。
鶴丸の来歴
ネットで調べたところ、大まかな来歴は以下のような流れでした。
「鎌倉時代に北条貞時が手に入れ、経緯は不明だが、織田信長から三牧勘兵衛に賜りそこから藤森の某家(または藤森神社)に伝わり、出家した本阿弥光的の次男が取り出して所持したとか藤森神社に貸し出したとか・・・そして江戸時代(貞享)に本阿弥家の仲介で伊達家に納められ、明治になって伊達家から明治天皇へ献上された。」
北条貞時が手に入れる前の来歴はもっとぼんやりしていて、文献によって違います。
高瀬羽皐の『刀剣談』によると、伊達家の『御刀剣記』には「村上太郎永守から清野三郎入道に伝わり、それより越後の城太郎に伝わって、弘安の役で紛失したものを北条貞時が手に入れた」と書かれいるそうです。
また『享保名物帳』を写本している『註詳刀剣名物帳』には「余五将軍 維茂(平維茂)から秋田城介に渡り北条貞時が手に入れた」と書いてあります。
あれ?どこにも霜月騒動も安達家も墓を暴いた話も出てこないぞ?と思い登場人物を調べていくと、秋田城介というのは役職名で当時これを任されていたのが安達家だったらしいのです。何その人の名前みたいな役職。完全に名前だと思い込んでました。(歴史に詳しくない勢なので理解するのも一苦労です。)
秋田城介=越後の城太郎であると思われるため、安達家に鶴丸国永があったというのは間違いなさそうです。
霜月騒動で安達家が滅んだ後に北条貞時が鶴丸を入手したのは納得できました。
でも墓を暴いた話は出てきていません…。
「鶴丸国永」の名前
福永酔剣著の『日本刀よもやま話』に墓を暴いた逸話についての記述があるらしく、読んでみました。
その本によると、室町時代の刀剣本である『喜阿銘尽』には下記のような記述があると書かれていました。
『刀剣談』にも伊達家の『御刀剣記』には鶴丸はリンドウ(漢字は利不動)という別名があると記されています。(伊達家の『御刀剣記』は『喜阿銘尽』を参考にしているとのこと。)
つまり臨刀(リンドウ)とは鶴丸国永のことを指し、ミササギ=陵=天皇・皇后などの墓という意味であるためミササギと呼ばれるのは墓をホリイタスユエだと読めるそうです。(些かこじつけが強い気がする…)
掘り起こされたとされる墓は安達家の誰かのものか、北条貞時のものとする説が有力のようです。
しかしホリイタスユエが本当に墓を掘りおこすという意味なのか、意見が分かれるそうです。(彫り致す、立て掛けるなど説がある)
ちなみに利不動や臨刀とは竜胆のことで、ハバキに竜胆の花の透かし彫りがあったことに由来すると書かれていました。
『日本刀よもやま話』によるとミササギよりも鶴丸の方が古い名前だということでした。
しかし鶴丸の名前の由来も詳しくは分からず、古い拵に由来するとか、昔より鶴丸と書かれた札がついていたとか、諸説あるようでした・・・
まとめ
鶴丸国永は平安時代の太刀だけあり、その物語は不確定な部分が多いため、人によって様々な解釈をされているのが面白いと思います。(偽物説などもある。)
また本によって書いてあることが違ったり、写本の種類も多いので、刀剣の来歴を調べようと思うと刀剣書の知識も必要な事を実感しました。
鶴丸国永を鑑賞する
鶴丸国永の作者は刀工 五条国永。国永は五条兼永の子または弟とされ、兼永は三条宗近の弟子と言われていますが、真偽は不明です。いずれにしても山城伝 三条系の刀工であることは間違いなさそうです。
現在 鶴丸国永は御物であり滅多に見ることが出来ませんが、昭和15年に靖国神社の遊就館が皇紀2600年を祝って開いた名刀展覧会に展示さたことがあります。
その時の図録にある鶴丸国永の解説です。
写真で見ると刃文は直刃調でのたれぽいですが、小丁子乱なんですね。かなり細いので実戦用ではなく鑑賞用としての役割が大きいとされています。
鶴丸国永(写し) 奉納
刀匠 藤安将平 さんが2018年1月16日に藤森神社に鶴丸国永の写しを奉納されました。
写しの鶴丸は細くて優美な太刀姿に優しい印象の刃文が美しくて、定期的に見たくなります。
藤森神社さんの御朱印やお守りもとても素敵なので、ぜひ京都に来られた際はお立ち寄り下さい。
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