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祖母のエクリプス

その日わたしは友人とマックにいた。17時頃だっただろうか。店内は空いていたため四人席に座り、久々に再会できたことを喜びながらポテトをつまんでいた。そのうちお腹も空いてきたので、そろそろ居酒屋に移動しようかと考えていたところで、父から電話がかかってきた。

わたしは一人暮らしをしている。そして特別家族と仲が良いわけではない。つまり、父から電話がかかってくるということは、確実に“何か”あったという事だ。嫌な予感しかない中、電話に出ると「祖母が亡くなった」と告げられた。
祖母は高齢で、同じく高齢の祖父と共にもう3年ほど施設に入居していた。冷たい言い方かもしれないが、多少覚悟できており「なんで死んじゃったの」みたいな気持ちは湧いてこなかった。とにかく今は母を亡くした立場である父の事を考え、少しでも気丈に振る舞おうと「すぐに向かう」と伝えた。
集合から2時間で解散する事になった友人は、嫌な顔ひとつせず「今は大丈夫でも、ふとした瞬間に悲しさが来るから、無理をするな」と改札まで見送ってくれた。

電車を間違えながらも一旦自宅へ帰り、途中で上司に欠勤の連絡を入れた。荷物を準備して父、母、弟と合流すると、祖母のいる老人ホームへと向かった。さぞ車中の雰囲気は重苦しいだろうと覚悟していたが、父は「寒いから早く乗れよ」と言い、母は「アンタ来るの遅かったわね」と言い、弟は助手席でゲームをしており、今から家族で外食でもするかのようだった。特にハンドルを握っていた父は、わたし達に気を遣わせまいという気持ちが強かったのか、演技っぽい口調で何度も後部座席のわたしに話しかけてきた。亡くなった状況について聞きたかったが、全員がその話題を避けているような気がして、わたしもあえて明るい話題を選んだ。

そんな事をしているうちに施設に着き、叔父と合流した。時刻はとうに19時半を回っていた。祖母の死はもう周知されているようで、職員とすれ違う度に「この度は…」とお悔やみを申し上げられた。「言われる側になったのは初めてだな」と変な気持ちになりながらも、祖母が施設に入居してから一度も会えなかったわたしは、まだどこか他人事のような気持ちでいた。

担架に横たわった祖母が運ばれてきた時にも涙は一粒も零れなかったが、それは悲しみを通り越し、人生で初めて見た遺体であるという衝撃が大きかったからだろう。どうやら弟も同じだったようで、互いに息を飲みながらそこで眠る祖母の表情を確認した。生前甘いお菓子が大好きだったとは思えないほど痩せこけ、目元は窪んでいた。特に肌の色が遠くから見て分かるほどに土気色になっている事に驚き、AEDの訓練をした時のゴム製の人形みたいだなと感じていると母が「こんなに小さくなっちゃって…」と言い、父が目頭を押さえた。

その後はあまり覚えていない。何しろとても目まぐるしかったのだ。私達は葬儀屋と対面し、通夜と告別式の日程を決め、葬儀屋は見積書を出した。なるべく費用を抑えるためにも様々なものを省き、完全に家族葬という形を取ったのだが、それでも70人ほど福沢諭吉が出ていく事になり、全ての話が纏まった時には22時を過ぎていた。

祖母の通夜は父と叔父の2人で行ったが、告別式にはわたし、母、弟、伯母が加わった。それでも人数が少ないので、葬儀後に棺に花を入れる際には全員が両手に抱えきれないほどの花を持って入れた。最終的には緩衝材のような量になってしまったが、花が好きな祖母のことだから「オラこんなに持てねえよ」と言っているかもしれない。綺麗に死化粧を施された顔は、どことなく喜んでいるような気がした。

祖母はもうこの世にいない。嫁姑の関係にあたるわたしの母とは、折り合いの悪い事が多かった。しかし料理と裁縫が得意だった事、マナーを身に付けさせてくれた事、母に叱られて拗ねているとこっそりお菓子をくれた事、熱が出た時に優しく看病してくれた事、そして誰よりも祖父を愛していた事はとても祖母らしかった。

足を悪くしてからほとんど出歩けていなかったから、軽くなった身体でどこまでも自由に歩けてるといいなと思う。

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