引導
現代のがん治療とは違く、当時はまだ本人に告知するか否かは家族の判断に委ねられた。
ひろちゃんの奥さんと当時14歳の息子は告知しない道を選択した。
ひろちゃんは、【腸閉塞】の手術をする為に入院した。
“親父、、、ひろちゃんは本当に助からないのか?”
「持って半年だそうだ、、、」
“見舞いに行きたいんだ”
「駄目だ。たかだか腸閉塞の手術でわざわざお前が見舞いに行けば、何かを勘づくかもしれない。オレが一度様子を見に行ってくる」
俺はまんじりとしない毎日を過ごした。
パチンコで規格外の大勝を収めても、想定外の大敗を喫しても心は動かなかった。
ただひたすら、ひろちゃんの快方を願った。
平成20年5月13日
朝の5時半に着信音に起こされた。ディスプレイを見るまでもなく掛けてきた相手は親父だと判った。
「今朝方、ひろちゃんが亡くなった」
“・・・そうか”
「お前は総本山の一番ツラい行を勤めあげた一人前の僧侶だ。お前がひろちゃんを送ってやってくれ」
数年前、片田舎の寺で妻と一緒に生活をしていた中、俺は数回葬儀に赴いた経験があった。その時は住職の侍者として、あくまで導師である師匠の助法という形で葬儀に参加し、脇僧として読経したに過ぎなかった。
もちろん、亡者を送る、いわゆる【引導】の法は修行時代に阿闍梨から伝授を受けている。
しかし、、、
経に関してはカラダが覚えているまま唱えることは出来るが、果たして導師として亡者を、、、大切な従兄弟であるひろちゃんを送るなんてことを、俺が出来るのだろうか。。
俺は決断を迫られていた。
ひろちゃんは死んだ。
そして、俺は僧侶だ。
ひろちゃんの家にはまだ仏はおらず、菩提寺もない。
悩んでいる場合ではなかった。ビビっている場合ではなかった。
ひろちゃんの実父、ミツオ伯父さんは、ひろちゃんをどうにか救うべく、あらゆる最新医療を施した。無認可の薬剤も投与した。ミツオ伯父さんは、貯金を全てひろちゃんの治療に充てた。文字通りすっからかんになっていた。坊主に納める一般的な適正額のお布施を支払う余力はなかった。
“俺がやる”
そう一言告げて俺は携帯電話を切った。
枕経。
ひろちゃんが無言の帰宅を果たしたアパートの前まで来て、俺は足が震えた。
この先に、この先に、ひろちゃんがいる。 ひろちゃんが、死んでいる。
アパートのドアノブに手を掛け、ゆっくりと開いた。
奥の方に布団の足元が見えた。 俺は感覚のない右足を踏み出した。
白布をハラリとめくる。
ひろちゃんが死んでいた。
ガリガリに痩せ、真っ白で、真っ黄色な死に顔だった。闘病の熾烈さを十二分に語りつつ無言を貫くひろちゃんがいた。
ひろちゃん。小さい時にたくさん遊んでくれてありがとうな。近所のいじめっ子にケンカで敗れ泣いて帰ってきた俺に頭突きを教えてくれたよね。俺はあのあとヤツを頭突きでブッ飛ばしてやったよ。それから、一緒にドブ川で鯉を釣ったよな。その鯉を食おうぜつって家に持ち帰り、適当に包丁で捌いているところにオフクロ帰ってきてさ、ふたりとも引っ叩かれたよな。あとはアレだ。その、、、色々あったよな。ひろちゃん。ひろちゃん。
なんで死んじまったんだよ。41歳で死んでんじゃねーよ!!!
泣いてしまった。ワンワン泣きながら詰まりながら枕経を読んだ。
通夜には大勢の参列者がひろちゃんを悼みにやってきてくれた。
俺は覚えていた。
『頼むよ坊さん、じいちゃんをいいところへおくってやってくれよ』
後頭部と背中に熱いほどの視線を感じた。
俺は必死に拝んだ。祈った。唱えられる全ての経を読み続けた。通夜は二時間半に渡った。弔問客が途切れなかった。俺は最後の一人が焼香を終えるまで読経をやめなかった。
ひろちゃんは海が好きだった。釣りが好きだった。
戒名というものを初めて考えた。
【海】という字を使った。強く優しかったひろちゃんをイメージして戒名を構成し、通夜で授けた。
恐ろしく汚い字で位牌に戒名を書いた。
ひろちゃん、こんなきたねぇ字でごめんな。ごめんな。
絶対に俺が極楽浄土ってとこに送ってやるからよ。また明日な。おやすみ、ひろちゃん。
俺は葬儀場を後にした。
一睡もしなかった。一晩中、引導作法の復習をし、組むべき【印】を繰り返し繰り返し練習し、読むべき【マントラ】を繰り返し繰り返し呟き、自身のカラダに落とし込んだ。
告別式。
淀みや迷いなどを一切感ずることなく、俺はひろちゃんに引導を渡した。
さよなら、ひろちゃん。
49日。
七七日忌の法事は家族と親族のみで営まれた。ひろちゃんの納骨を以て、各々が日常に戻るべく前を向こうとしていた。とてもとても小さいが、各々に笑顔があった。
俺はひろちゃんの【成仏】を確信した。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?