正しさ、よりも必要だったこと。
ビジネス交流会に所属しているのだが、毎週1分間の自己紹介がある。自分や仕事にまつわるスピーチなんだけど、このお題がとってもユニーク!
今週は『原体験』だった。
すごく、強烈で大切な原体験がある。
ーー
年中さんのころ。
わたしは4歳から保育園に入園した。
今とは真逆、共働き家庭はめずらしい時代。保育園は乳幼児期からの通園が当たり前だった。
入園初日、「4歳なんだから、幼稚園にいけばいいでしょ!」と、本当にそうなじられ、超内向的だったわたしは、あっという間にいじめられっ子の地位を確立することになる。
いじめっ子のリーダーは、アサミちゃん。
手下数名を率いるチームに、朝な夕な、悪口やモノを蹴られたりした。
当時、わたしはお絵描きが得意で、静かな女の子に「お姫様を描いて」と言われて描いて渡したり、お絵かきを接点に、ときどきのささやかなお友だち関係が嬉しかった。
だけどそれは、アサミちゃんの癇に障るようで、私の描いた絵を酷評し、お友だちを連れて行ってしまったり、お絵かきの道具を飛ばしたりする。
そんなある日、事件が起きた。
お教室にみんなの粘土作品が飾られていた。
お昼寝の準備中、アサミちゃんはわたしの粘土作品を手に取ると、目の前で床にたたきつけた。さすがに、わたしは泣いた。
そこに大好きなS先生がきた。
アサミちゃんを叱った場面は詳しく覚えていない。だけどその後、S先生はアサミちゃんの粘土作品を手にすると、床にたたきつけたのだ。
呆然・・・。
4歳といえども子どもたちが静まり返る。
「どんな気持ち!?わかる?」
とっても強い口調。今まで知らない先生の声。
アサミちゃんは大きな声でギャン泣きした。
イジワルを発見するたび仲裁してくれたS先生。
聖子ちゃんヘアで、アラレちゃんの「がっちゃん」のマネをよく皆に見せてくれた、可愛い先生。
私にも優しくしてくれて、大好きだった。
だけど、先生がアサミちゃんの粘土を床に叩きつけたとき、わたしははじめて、独りでは無い と感じた。温かい。
大人のことばでいえば、先生をはじめて信頼した瞬間かも知れない。
保育園の運動会さえ、自分の自己啓発会の用事で来ない母親だもの。私は護られるという感覚を知らなかったのだと思う。
あの時、「味方」の意味や、絶対的な加護のなかで安心できる、という感覚にはじめて触れたように思う。
その日を境に、アサミちゃん一派からの嫌がらせは一切なくなった。
・・
今の時代、S先生の対応は賛否の否のほうが多く集まるかも知れない。アサミちゃんと先生の関係はじめ書いていないこともたくさんあるし。
景色だけでみたら、やっぱり正義の正解とは言い難いだろう。
だけど、わたしには、「正しい」ということより、よっぽど必要なことだった。いろんな立場のなかで、あの頃の幼い私の目線には、最大級の肯定的経験となった。
アサミちゃんを恨んだり悔しい思い出として、後に引かないで済んでいるのも、この庇護感があったからではないかな。
いまに至って、自覚する、一般的な「正しい」や「正義」を正解とは決めつけたくない性質だとか、ストーリーや登場人物を色んな方向・立場から見て判断しようとするのは、これが原体験になっているのだと思う。
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