見出し画像

112話 『親方衆』②

その後、僕は想像もできない理由から、親方衆に受け入れてもらえる事になる。
それはある「団体」との比較による評価のせいだった。

僕が現れる1年ほど前、この親方衆に「今後の陶磁器」について、一方的に指導しに来た集団がいたらしいのだ。
それは県や市が後押しする公的な団体で、地場産業を活性化するために組織された、若手だけのエリート集団だった。
中には大学を出たばかりの段階の人もいるほど、全員現場経験がまるで無かった。それが、いきなり町の税金で建てられた施設に陣取り、海外で数週間程度研修をしたぐらいの状態で集団で町に乗り込み、一方的に「我々の話を聞け」と言って来たというのだから、そりゃあ親方衆が認める訳もなかった。
そんな折、何も知らずノコノコ現れた僕に「こいつの方がマシ」という、奇跡の軍配が上がったのだ。
まぁ、僕を選んだというより、エリート集団を拒んだという姿勢を、親方衆は示したかっただけなのかもしれない。

こうして、この陶磁器の町で、1年掛かりの商品開発会議がスタートする。
僕の報酬は組合と行政が持ってくれる事になり、フリーランスになって初めての大仕事になった。
商品企画としては1年で全く方向性の違う25点の試作品を仕上げ、展示会までを行う事。
加えて、今まで自分が訪ね歩いて来た岐阜県での人脈の中で、「美濃の和紙」「恵那のみかげ石」「白鳥、加子母の木工・刷毛産業」といった美濃焼以外の岐阜の地場産業との「異業種の話し合いを持つ」という要素を、企画の中に織り込んだ。現代で言うところの「コラボ」のようなものだ。
職人さん達はどの業種であっても仕事の性質上工場に閉じこもるしかないため、知り合いを増やす事が難しく、結果孤独になりやすい。この点を、「商品の素材の供給関係」と「交流の場」という2点から、企画に盛り込んでみたのだ。
この作り手同士の交流という部分はメンバーの誰もに好感を持たれ、商品開発と並ぶほどの価値を持った企画となって行った。
打ち合わせ用の資料作りと、会議参加とその後の議事録の作成が、僕の業務内容だった。やはり町役場同様に、行政の予算が絡むものは記録が全てという事のようだ。
金額面も大きく、会社員だった頃の年収を超えるのは初めてだった。急な話だったので、正規の見積書や伝票の提出が必要と言われ、さすがに「そんな本格的なものは知りません」とも言えず、事務面も一から勉強しながらの、慌ただしい日々が始まった。

今回の仕事は相手が特殊な町なので、僕は時間のある限り、打ち合わせの時以外にも、町や組合の事務所に顔を出すようになった。顔を合わせるたびに距離が縮まって行くのがわかり、自分が全親方達の見習いのような扱いを受けながらも、どこか仲間が出来たような嬉しさがあった。
僕のようなよそ者はめったに入って来ないという地域的な状況から、さまざまな個人的な相談が世間話のように寄せられて行った。
例えば陶磁器以外の素材を使う場合の手配や、その相手先探しなどだ。僕の人脈でなんとかできる話は限られていたけれど、それでも相談を受ける事自体が重要で、何より嬉しかった。
「飲食店をやる知り合いがいるのだけれど、チラシの相談に乗ってくれるか?」とか「こんな観光地戦略の打診が来たんだけれど、客観的にどう思うか?」とかいう真面目な話から、中には「こんな健康グッズを売りたいっていう身内がいるのだけれど、一体どんなものなのか調べてみて欲しい」というようなものまであり、その結果「詐欺商法だ」と教えてあげられた事などもあった。
もちろんどの相談も会話のみなので無料だったし、相談される時には「おい、お前に聞きたい事があってな」というような一方的な調子だった。
僕は1年掛かりの大きな仕事の範囲として、どんな相談でも、できる限りの協力を惜しまなかった。

そんな中で、ある日イベントの相談が舞い込んで来る。恒例の地域祭りがあるのだけれど、集客の方は充分にあるので、祭りの内容面に「何か目玉が欲しい」というのだ。
僕は単純に、バンド演奏を打診してみた。
すぐに「なんでお前が?」というツッコミが入って来る。
ここで、初めて僕がハーモニカを演奏する事や、定期的に出演している店がある事、出張営業もこなせるプロの人脈もある事を伝えた。
親方衆は当然全員が驚いてはいたものの、逆に言った自分の方もどこか驚いてしまっていた。
この頃は、続けていたバンド活動もすっかり安定していて、4組ものユニットに並行して参加していた。毎週のようなペースでライブも続き、BGM的な営業演奏やコンサートホールでの演奏、地元ラジオの生放送で演奏するような機会もあった。ギャラだって、それが収入とは言えないまでも、よほどの遠方に行かない限りはマイナスになる事など無かったし、すでに組む相手も、プロかセミプロばかりになっていた。
それを続けられていて、なぜ今まで、この町の誰にも話そうとしなかったのだろうかと、自分でも不思議なほどだ。
ハーモニカという楽器がゲスト参加的なポジションでもあるため、ステージに対して責任感を持っていなかったからなのかもしれないけれど、とにもかくにも、自分のフリーランスの仕事が軌道に乗るまでは、演奏に重きをおいていなかったという事なのかもしれない。
なんにしても、音楽以外は頭に無いような人達からは怒鳴られそうな話だけれど、当時の僕は、それほどに自分の企画業を軌道に乗せる事が全てだったのだ。

そんな訳で、「じゃあ、お前に任せるな」の一言で、僕は地域祭りの出演バンドを手配する事になった。もちろんこれは立派に別の仕事依頼となり、改めて、後日別のお祭りの担当者と、スケジュールや予算などを打ち合わせをする事になった。

そして迎えたイベント当日は、自分もハーモニカで出演し、親方衆からはかなり驚かれる事になった。ハーモニカという楽器の身近さからも、一気に好感を持ってもらえるようになり、自分も吹いてみたいと言って来る親方もいたほどだった。
さらに「陶磁器の町」と「バンド演奏」とがチグハグにならないように、親方の1人にバンドメンバーのように横に陣取ってもらい、ろくろを使って、速い曲の演奏に合わせ「大量の湯呑を作る」、ゆっくりとしたバラードのラストで「土を伸ばすように大皿を作る」という、今でいう「コラボレーション的な演出」を僕の方で企画し、祭りのメインイベントのパフォーマンスとして披露した。
お願いをした職人さんからは「全くよ!俺らを、見世物のサルみたいにしやがって!」と怒鳴られたり、職人の町としては「野外でろくろをやれば、急に土が乾き使える器にはならない。土も無駄になるし、素人だと思われる」「芸術家を目指していると思われたら困る。えらいさんから嫌味を言われるかもしれない」等、演出に賛否があったようだけれど、祭りの来訪者には大むね好評で、その後もあの祭りは個性的で見ごたえがあったと言わしめるものとなったそうだ。

そして、この時にたまたま僕が冗談で「いつか陶磁器でハーモニカを作りたい」と言ったのがキッカケで、その後、仕事とは全く別で、手作りの範囲でハーモニカのマウスピースを制作し、数本ではあるけれど、おそらく世界で初となる陶磁器の口当たりのハーモニカを、自作で試作する事にもなった。
残念ながら、期待したようには音は良くは無かったけれど、当時話題となっていた「抗菌ブーム」の流れで、陶磁器の衛生面を新しい角度からアピールするひとつの方向性として、小さいながらも、町の話題くらいにはなったらしい。
後日、それをボランティアで手伝ってくれた若い陶工の1人が、「なぁ、広瀬さんよ、来年はその陶器のハーモニカ持って、祭りで演奏しろよ。案外ウケるかもしれんぜ!」と言った。するともう一人が「のう広瀬さん、来年あたり、ここいらに住んどったりしてな」そう返し、僕も含めて全員で大きく笑った。
かみさんもこの陶器のハーモニカの完成をとても喜んでくれていた。まるで、僕の念願の夢が叶ったかのように。

それ以来、不思議と、僕はまたハーモニカとの関係が元に戻ったような気がしていた。
ライブも欠かさず続けていられていたし、音楽に変わらぬ情熱こそ持っていたつもりではあったけれど、やっぱりどこかで「仕事が上手く行くまでは」という、おかしな封印があったのかもしれなかった。
ハーモニカ側からすれば「全く、自分に転機が来るたび、毎回俺らをぞんざいにしやがって!いい加減、もっと俺ら相棒を、大切にしろよな!」そう言って腹を立ている事だろう。

つづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?