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108話 『広瀬企画室』②

お土産店の人が紹介してくれた、いつも知恵を絞ってくれているその「若い人」がいたのは、会社などではなく、なんと「町役場」だった。
地域でやっているような特産品は、売り場のスタッフさんこそ地元のパートさんなのだけれど、仕入れや店の経営は「第三セクター」と言われる半民半官の組織となっている場合が多い。つまり半分は商売だけれど、半分は地域への還元のようなもので、お役所の仕事に近い公共性を重視するものとなっている。
そんな事からもあまり商売にも緊張感がなく、いきなり現れた僕のような来訪者に警戒する事もなく、普通に会議室のような部屋へと通してくれ、丁寧にお茶まで出してくれた。

役場なんて手続きなどでしか行かないような場所だけれど、観光地を持つ役場にはもれなく「観光課」が設けられており、地元出身の個性豊かな若い担当者が頑張っている場合が多く、意外なほどエネルギッシュな雰囲気があった。
電話で僕の来るのを聞き待っていてくれた担当者は、嬉しそうに僕の名刺を受け取ると「良いアイデアがあるならぜひ欲しい」と、驚くほどざっくばらんに見知らぬ僕に、プレゼンテーションのチャンスをくれたのだった。もちろんそれは謝礼などは全くないレベルの話だったけれど、採用する場合には、そういった案件のための予算が準備されているとの話だった。つまり「お金はあってもアイデアが無い」という、願ったり叶ったりの状況が、そこにはあったのだ。
ひとしきり話が盛り上がったのち、役場を引き上げると、翌日からすぐにその地域の事を調べ始め、お土産店のPRイベントからショップの飾り付け案までを、渾身のイラスト入りの企画書でまとめ上げた。

後日、無報酬で提出したその企画書が、まだPCが普及し切ってはいなかったので、僕が全て手書きの文字とイラストで仕上げた書類だったという事もあり、受け取った相手は、まるで「貴重な作品」を眺めるかのように大切に受け取ってくれた。
当たり前のように、それで即採用になるものなんて無かったけれど、幸運にもその企画書が元になり、その後の地域の会議で使う打ち合わせレベルのイメージスケッチの依頼へと繋がって行ってくれたのだった。
それが「広瀬企画室」らしい、自分が生み出した初めての仕事だった。

相手はゼネコンのようなボッタクリばかりを相手にして来たために「今回は予算がないので、少なくて申し訳ない」と笑いながら繰り返していたけれど、個人でやっている僕には充分過ぎる金額ではあった。
さらに助かるのが「公的な仕事」でもあるため、自分の受けた仕事として外部へ見せても問題は無いらしく、むしろそれ自体が小さな観光PRにもなるため、ぜひそうして欲しいくらいだと言われた事だった。
何から何まで違う価値観に、僕はすっかり驚かされっぱなしだった。

それは、待ちに待った小さな一歩だった。僕は他にできることも見当たらない状況で、このわずかな突破口に必死ですがりついた。
そうは言っても、もちろん同じ町でいくつも仕事がもらえる訳はない。僕は同じやり方でいくつもの観光の町を回り始めた。そう、目指すは「町役場の観光課」だ。
それから数ヶ月で、僕は10箇所近くの町役場を訪ね、ありとあらゆる当てのない提案を、イラスト入りの企画書として、無料で提出して回った。
当然のようにそれが採用などにはならないのだけれど、地元の大きめな企業に紹介してくれたり、別の観光地での情報をくれたり、中にはその場で、別の町のプロジェクトの担当者を紹介してくれた事まであった。商売っ気が無い立場の人というのは、ある意味最強の味方だと思えたほどだ。
僕はまるでロールプレイングゲームの主人公のように、出会った人との会話で、次の町へ移動するというような事を実践して行った。

そんな日々の中で、僕は全く知らなかった分野で、意外な仕事を作り出す事になる。それは地域会合の「議事録」を作成する仕事だった。
当時はどこの町でも「町のこれから」を話し合うために、町民達が集まる理由を探していた。特に岐阜県の山間部では過疎化の問題が目前に迫り、地域を活性化するためにも何かをしなければいけないのは誰もがわかってはいるのだけれど、何をすれば良いのか、何から話せば良いのかが見つけられず、ただ足踏みをしていたのだ。
そんな時、僕が提出した「町で建てた新しい施設の活用方法」の企画書が、たまたま議題として上がり、集まるには格好の機会になったというのだ。

最初に町役場の担当者からこの進展の一報を受けた僕は、動きがあった嬉しさの一方で、自分はそこで何をすれば良いのか、まるでイメージがわかなかった。「『君の企画書』を採用する訳ではないのだけれど、地域のメンバーの会合に参加して、その『議事録』を作成して欲しい」というのだから。なお謝礼は参加料と議事録の作成料という事だった。それはまるで、スパイ大作戦の難解な暗号のような話の難しさではないか。
議事録といえば、報告書の事だろうけれど、そんなのはむしろお役所の得意技だろうに、なんであえて僕になどと、最初は首をかしげるものがあった。さらに僕はワープロすら使えなかったので「手書きの報告書だと迷惑なのでは?」と確認をするのだけれど、まだ町では手書きが普通なので問題はないとの事だった。
とにかく今までだって報酬の当てがあって動いていた訳ではないのだし、これも貴重な顔つなぎの機会と、とりあえず僕はこの件を引き受け、その会合へ出席する事になった。

会合の当日、時間は夜7時頃だった。集まったのは一人残らず地域の商店の経営者達で、仕事終わりのいわゆる普通のお父さんお母さんばかりが集まっていた。ジャージやエプロン姿で、誰もがちょっとそこまで出て来たといった気楽さに見え、わざわざ呼ばれた僕は、知らない親戚の集まりに来てしまったような気まずさを感じていた。
ほどなくして始まった会合は、僕の作成した企画書にある「町で建てた新しい施設の活用方法」を採用する流れではないのは最初から聞いていたのだけれど、いきなり「この提案のどこに反対なのか」から始まり「では、自分達はどうしたいのか」という激論に繋がって行った。つまりは、採用はしない企画書だけれど、叩き台として存分に使わせてもらおうという訳だ。
だからと言って、この会合への参加が無駄足という事ではなかった。僕が驚かされたのはその次の話だ。
ここでもし全員が合意する何らかの方向性が出せれば、この話し合いの機会を作った僕へ、改めてその方向性での企画書の作成を依頼するというのだ。
「採用にはならないという事実」と「新規の依頼への期待」という複雑な気持ちではあったけれど、これでようやく僕はその日の自分の役目を理解する事ができた。

会合は、今までの町役場主導での失敗に対する不満や、地元の意見を聞く気のなかった担当者の姿勢への批判などをからめつつ、徐々にヒートアップして行き、予定時間をオーバーしながらも、無事に幕を閉じた。
たとえけんけんごうごうな物言いでも、相手の町役場の担当者も結局はご近所の息子さんなど身内ばかりのようだし、言い詰められた担当者の方も、今まで立ち止まっていた話が少しでも進むならと、積極的に僕に仕事を依頼したいくらいの勢いだった。
僕は呼び出された割には、企画書に関して数回細かな質問をされたくらいで、正式な参加者の一人という扱われ方ではなかったけれど、依頼されていた会合の議事について、しっかりとメモをまとめられたので、「後日報告書として間違いなく提出をします」と担当者に約束をした。
ここで約束の「当日の会議参加」の謝礼を受け取るべくいくつかの書類にサインをし、印を押してから、会合に同席した町役場の担当者へと渡した。謝礼は「議事録の作成料」と合わせ、後日の振込みとなるようだ。こんな訳のわからない役目で本当に支払いがあるのは衝撃的だった。

最後に数人の町民が残り、気まずそうに僕に感謝を口にし始めた。
会合では僕の企画書の内容に否定的な事ばかりを言ったけれど、この会合は実に有意義なものになったという感想だった。メンバーがそれぞれ自分の意見を言い合うなど、今までに無かった事らしいのだ。
確かに何から考えれば良いのか、何から話せば良いのかという段階では、例え全否定になっても「叩き台のような案」が必要なのかもしれない。

僕は後日、会合の記録を「議事録」として提出し、また懲りずに、そこで出た意見の改善案として、追加の企画書を添付しておいた。もちろん、また叩き台にしてもらう事をあてにしての、僕なりの営業活動だ。
議事録を提出し、約束通りその作成料を受け取った僕は、意外な「項目」に驚かされた。そこには「コンサルティング費用」と書かれてあったのだ。
コンサルティングと言えばまず思い浮かぶのは「経営コンサルタント」で、会社員時代、僕らを散々苦しめたリストラ屋の連中だ。当然の事ながら、選ばれたエリート達の仕事で、それこそ行政を相手にするならば、僕なんかでは務まるはずもない業務だろうに。
僕は慌てて、この項目について担当者に話を聞いた。自分がさまざまな仕事を経験していると自己紹介をして来たつもりが、ひょっとするとまるで実績のある成功者のような印象に受け取られ、過大評価をされていては後々困るからだ。
けれど、話は実に単純だった。地域活性化の話は重要なのだけれど、あって無いような分野なので、予算を使える項目が、それしか見当たらないからという事だった。

こうして、僕は自分では名乗らないまでも、この「コンサルタント費用」の枠の中で、その後何度か報告書という名の企画書作りを行い、不思議な仕事の支払いを受ける事になった。そうは言っても、僕の場合は報告書といえど毎回スケッチを描いている分、自分的には受け取りやすい費用ではあった。
さらに、請求の仕方を毎回違う方法で指示されるのにも困惑させられた。その役場に通った日数という扱いの日当計算だったり、打ち合わせに参加する人数分のコピーを「小冊子」として買い取ってもらうという費用だったり。
もちろん、そこで提出した企画書のアイデアは全て町の買い取り扱いで、例えその後採用される事になっても、追加の支払いは無いのを書面で約束させられていた。まぁ、結果、ひとつも採用にはならなかったのだけれど。

毎回、一回コッキリの単発仕事ではあれど、このしっかりと残る僕の提出した「議事録」は、その後の僕の身元証明の役割を果たしてくれるようになって行った。
おかげで、それから先のしばらくは、できる限り町役場が絡んだ企画の資料を自分の仕事として見せて回り、誰に対しても怪しまれない公的な存在だと印象付けて行った。その効果はてきめんで、僕は確実に、自信を持って提案先を開拓し続けて行く事ができた。
それがどこまでも続いて行くほど甘い訳は無いとはわかっていたけれど、紹介が紹介を産み、とりあえず会って話を聞いてくれる人が続いて行くだけでも、当時の僕にはありがたい事だった。

こうして「叩き台」となる企画書を作っては、会合の「報告書」をまとめるという、僕ならでは仕事が誕生した。
その後も観光地のお土産店や施設を回っては、自分ならではの目線で改善案を出し、担当者にお目通しを願い出る方法を続けてみた。「お土産店の売場づくり叩き台」に始まり、「看板やキャッチコピーの叩き台」「集客イベントや体験教室アイデアの叩き台」「観光ガイドマップの叩き台」など。
相手がやっている事に対して、半ば因縁をつけているような持ち掛け方でもあるので、即門前払いもあったけれど、僕の企画書達はそれぞれの現場担当者により、地元の会合などの議題に掛けられて行き、まるでみんなが待ちに待っていたサンドバックのように叩きまくられ、それぞれ会議を貴重なものにして行った。
確かにどれも、最初は見返りの保証はないし、効率的な動き方ではないのは分かっていたけれど、全くのナシのつぶてという期間もあったので、それが成果に思えた。
とにかく僕はこの事前の企画書と、事後の報告書で、確実に実績を作って行こうと必死だった。自分が見つけ出した、自分だけの仕事なのだから。

そうはいっても、なかなか何かを積み上げられているような気がせず、まるで、土台がない土地に建物を立てているような感覚だった。例え流れの中でなんらかの仕事につながったとしても、地域の活性化イベントや使われていない施設の利用法なんて、自分の畑違いもいいところの企画ばかりで、結局今までのスキルを活かせそうな、お土産品の商品開発のような話にはいつまでもつながっていかなかったからだ。

つづく


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