111話 『親方衆』①
会議室には、殺伐としたむせるような男臭さが充満していた。
網戸ごと窓を開け放ち、虫が入って来るより、少しでも暑さの方をなんとかしたいようだった。
上座には、前回打ち合わせした年上の親方がでんと座っている。議事進行という立場らしいのだけれど、明らかに参加者の全員を威嚇するような厳しい顔つきで、タバコをくわえながら書類に目を通している。
やがてメンバーが揃い、その親方が司会となり簡単な挨拶を済ますと、開口一番、ちらりと僕を見て、まるで吐き捨てるような言葉を放った。
「今日は一人、変な奴が来ておるけど、こいつが、こんな物を考えましたって、しょうもない絵を描いて組合に持ってきやがってな。まぁ、みんな、悪ぅけど、ちぃと見てやってくれや」と。
耳を疑うほど、驚くような乱暴な言葉から会合は始まった。周りは周りで、その物言いに、少し吹き出すように口を歪ませる。この口調はいつもの事なのだろうか。その紹介だと、今回叩き台になるのは企画書ではなく僕自身の方ではないのかと不安にさせるほどだった。
前回、組合の事務所で話した時は、多少のぶっきらぼうさはあっても、これほど乱暴な物言いではなかったはずなのだけれど。親方同士の集まりともなると、こういうパフォーマンスもリーダーのポーズとして必要なのだろうか。
集まった親方達の誰もが、はなから僕の説明など聞く気もないらしく、すぐに僕のアイデアへの「反対」や「罵倒」を、雨あられのように口にし始める。
「はぁ、これよぅ、どの国の食器の話よ?あんたは、あれか?ファミレス族か?」
「全く、かなわんのう~。これからは、あんたみたいな人らに向けて、器(うつわ)作ってかんとイカンのかや」
「正直なぁ、このたわけが!(この馬鹿者が!)で終わりの話やぞ、これ。なぁ?」
岐阜県の中でも東濃(美濃の東)地方は言葉がキツくて有名だ。それが初対面のこわもての男性集団から飛び出すのだから、それはそれは震え上がるような怖さだった。
まぁ、自分達が家族で何代にも渡ってやって来た仕事に、見ず知らずの人物が突然口を出した訳なのだから、トゲがあるのも当たり前の事ではあった。
僕は震えながらも、すかさず真っ白なスケッチブックを出して、反対の意見を元に「でしたら」と数分と掛けずに、その場で改善を加えた新たな商品案をイラストで描いてみせる。
すると、すぐにそのスケッチにも「構造的問題」や「耐久性」などの職人ならでは文句が飛んで来る。
陶磁器の仕事を半年以上はしていたのである程度は話を理解できたけれど、かなりの意地の悪さを併せ持つ意図的に専門性の高い話と、初対面の集団が腹を立てているという恐ろしさの中で、僕は口が乾いて行き、言葉すらなかなか出なくなって来る。
それと同時に、自分の中の別な部分が、今までの町の会議と同じように、口調はとげとげしいものの、会話自体は弾んでいる事を感じ取っていた。おそらく、この会議は有意義なものになるのだろうと。
30分ほどの会話の中で、何度かそのような瞬時の追加アイデアを絵にして見せた事で、まずはひとつだけ僕を評価をしてもらえた部分があった。それは「早く絵が描ける」という点だった。全員が職人であるからには、やはり手を動かす事に対しては、それなりに敬意を払うという事なのかもしれない。
そして、会議に参加する1人がぽつりと言った。
「こいつ一人町におったら、便利やのう。いちいち焼かんでええわ」と。
これには全員が笑い出した。
陶磁器は土で作り、着彩し窯で焼き上げる。当然考えたものが形になるのは数日後だ。
名のあるメンツもいるので、自分達が「手を動かす事自体」が確実に何かの成果を出さなければならない。先払いの依頼で、どんな仕上がりでも文句を言わずに買い取るなんていう高飛車な条件だってざらにあるらしい。そんな歴史の中にあっては、試しにやってみたでは済まない場合もある。それが依頼を受けて生産し続けて来た、職人の誇りでもあるのだろう。
それに対し、何度でも簡単に描き直せるという僕の能力は、さぞや便利に見えたことだろう。
笑いが出たところで、場が和んだと見た僕は、すかさず「いい勉強をさせていただきました!」と元気にお礼を言い「また自分にアイデアを出す機会を下さい!」と挨拶し、深々頭を下げた。目の前のこちらをにらみつける集団を相手に、このまま無事に帰れるだろうかという不安もある中での、自己防衛も含めた渾身の挨拶だった。
それに対し、今回の窓口となった司会の親方は間髪を入れず「お前はただで勉強できただろうけど、こっちはとんだ時間の無駄だったわ。さぁ、もう帰ってくれ!」と厳しく言い放ち、一区切りをするでも無く、手に持った会合の議事が書かれた書類に目を移すと、早々に次の議題を話し始めてしまった。
それが、僕が無事にその場から退散する合図となった。
去り際、何事も無かったかのように、次の会議の議題が話されて行くのが背中越しに聞こえていた。
誰も僕を見送りもしなかった。
彼らからすれば全てが予定通りだったのかもしれない。会議では多くの意見が飛び交い、誰がどんな考え方なのかも、一通り把握できる機会にはできたはずだ。しかも、全員が攻撃したのはよそ者の僕1人なので、今後もお互いがギクシャクする事は無くて済むのだ。
車で家に帰る道すがら、自分の身の安全をようやく感じ取れる場所まで離れると、僕はようやく腹を立てる事ができた。おそらく、親方達は僕が帰ったのを確認してから、また散々ぱら悪口を言っているのだろうなと想像し、遅れてハラワタが煮えくり返って来る。
自分でも忘れていた、かつて大手企業で全国販売の商品を手掛けていたという密かなプライドがいきなり顔を出し、それぞれの親方衆の物言いと重なって、何の後ろ盾もない自分を惨めにさせ、さすがに目が潤んだ。
帰るやいなや、僕の帰りを待っていてくれたかみさんに、商品開発に関係する仕事のチャンスと意気込んで臨んだものの、全くの拒否で惨めに終わったと、素直に報告した。そして、いかに自分に否がないか、いかに相手が一方的だったかをまくし立てるように話す。最低限、かみさんに味方について欲しいという、甘えのようなものだっだ。
けれどかみさんの方は、僕のまくし立てる話の中から相手の言ったセリフだけを取り上げ、「じゃあ、それに対抗するアイデアを、また考えなきゃね」と、さらりと言い出した。
僕はこのかみさんの言葉に度肝を抜かれた。僕の方は自分の惨めさから、すでに答えの出た話だと受け止めていたのだけれど、かみさんの方は、僕が「絵を描くのが早い」と認められ、「次の企画を持って来い」と言われたようなものだと、良い方に解釈したようなのだ。
(なんて前向きな人なんだろう?)と僕は驚き、半ば呆れ返った。
その場にいなかったからそんな呑気な事が言えるんだと、僕は一度は自分の腹立ちからそう言い返しそうになったけれど、そこでようやくかみさんの真意に気が付いた。
今回のような待ちに待った商品開発周りの話は、不景気がどこまでも続く当時の時代的にも、閉鎖的な地域的にも、おおよそ回って来ないほどの稀有なチャンスだったろう。今日のプレゼンの機会を手にした事自体が、砂山から針を見つけるような確率の大チャンスだったはずなのだ。
ならば、それこそ石にかじりついてでも、モノにするべき話なのだ。
翌日、僕は改めて、今回の会議で出た言葉を一言一句逃さず思い出し、現場でとったメモとすり合わせ、ひとつひとつに対抗案を考え始めた。
考えてみれば、別に何かの公の試験に落とされた訳でもないのだし、ガンガン専門的に言い返されやり込められたところで、分からない言葉が出てくればその都度、後で調べて一から学んで行けば良いのだから。
数日後、僕は会議に出席させてもらったお礼として、自分がその場に居合わせたところまでの会議の議事と、その後に親方衆の意見から思いついた追加のアイデアを添付し、お得意の「議事録」として工業組合側へ提出した。
その中に添付した商品案のスケッチにはとびきりの手間を掛け、リアルなタッチのオールカラーで仕上げ、できる限り陶磁器の質感で描いておいた。
そこまでしたのは僕なりの意地のようなものだった。
せめて「僕の絵は、早いだけじゃないんだぞ」と、伝えてやりたかったのだ。
つづく
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