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29話 ハーモニカの教則テープ

僕は聞かれるがままに今までのテンホールズハーモニカ歴を話すと、店員さんはハーモニカのカタログを数種類取り出し、柔らかな口調でさまざまな機種の説明をしてくれた。
この店員さんはUさんという恰幅の良い男性で、ハーモニカコーナー専属だった。
お目当てのドイツ「ホーナー社」のカタログはまるで自動車のカタログのような豪華な装丁で、ハーモニカ奏者達の写真が一覧で載っていた。Uさんは数人の日本人の写真を指でさし「この店にも顔を出すよ」と教えてくれる。僕にとってはちょっとした芸能人話のようだった。

僕の話の中で、Uさんが驚いた部分があった。
「えっ、君まだCのKeyを持ってないの?本当に?君3年くらい吹いてるんだよね?」
どうやらテンホールズを始め、全てのハーモニカに関して、CのKeyから買うのが普通のようだった。僕はホーナー社製のテンホールズでCのKeyを買う事だけは決め、さらに数あるの機種の質問へと話を進める。

質問の中で、僕の好きなテンホールズを吹く人達の話をしたのだけれど、Uさんはその全てが「ハーモニカ奏者ではない」と一蹴し、教則本にも紹介されているようなハーピスト(ハーモニカ奏者の呼び方)の演奏を聴くようにと勧める。さすがは専門店といったところだ。
さまざまな会話を続ける中で、ようやく気に入ったテンホールズを選んだ。
「マリンバンド」という名前の、中央が木製部品でできているハーモニカで、ホーナー社の中でもかなり歴史ある古い機種らしい。
僕の使っていた「メジャーボーイ」は日本のトンボ楽器製作所の製品で、このマリンバンドに比べれば幾分大きめだった。ただでさえ小さいものがより小さくなるのは不安だったけれど、その独特の格好の良さから、マリンバンドのCのKeyを買う事に決める。

商品が決まると、Uさんは親身になって色々と楽器が上手になるための相談に乗ってくれた。今思うと「遊びで気楽にやりがちなテンホールズ」を真剣にやっている僕に興味を持ってくれたのだろう。僕は思い切って「教則本を買ったものの楽譜が読めずに困っている」と話してみる。

「そうかぁ~。君、楽譜が読めないのかぁ~。まぁ悪くはないよ。ハーモニカの人は多いからねぇ~。それが普通かもね~」
「そうですか。とにかく、なんとか、理解したいんですけど」
「なら、これかなぁ~。楽譜はないから、君には良いかもねぇ~」
ガラスケースの奥の方からUさんが取り出したのは、ビニール袋に入った、ホチキス止めの薄いテキストと、白黒コピー用紙のラベルが貼られたカセットテープが入った、安っぽいセット商品だった。
「なんですか?これ?」その作りの雑さが、早くも僕を不安にさせる。
それはホーナー社の「教則テープ」だった。テキストには楽譜はなく、解説が文章で書かれ、テープの音を聴けばそれらを吹けるように学べるというものだった。ちょうどCのKeyに対応するように作られていて、ホーナー社のマリンバンドを買う僕にはぴったりだった。
けれどもその金額は思ったより高く、ハーモニカ1本よりも1000円くらい高かった。

(大丈夫かな?カセットテープって、今ひとつ信用できないよな。家に帰って聞いてみたら、何にも入っていませんみたいな。次の日お店に駆けつけると、もうお店が無かったりして。まさかそんな「ヤッターマンのドロンボ一」みたいな訳ないか。いや、でも犯罪都市・東京だしな)
悩んだ末、僕はホーナー社のマリンバンドと一緒に、その「教則テープ」も買う事にした。

こうして実に久し振りに、5本目のテンホールズハーモニカとなるCのKeyを手に入れた。
家まで待てず、帰りの電車ですぐにビニール袋を破り捨て、解説本の方に飛びつく。
その内容は、ブルースという音楽に取り組むための「心構え」のようなものから始まる。
Uさんの説明の通り楽譜はなく、吹き吸いは「穴番号と上下の吹き吸い矢印」で書かれていた。

洋書の翻訳版なので「例えば、君が街で1ドル拾ったとしよう」というような独特な言い回しで解説され、どのページにも「まるでキャデラックを盗まれたような」とか「最低の気分で、朝からバーボンを食らって」などの表現があり、僕には全く共感できないものだった。けれどもどうやら重要な「吹き方」の部分は、全てカセットテープに入っているので、それをマネれば学ぶ事はできそうだ。
僕はいつまでも電車の中では聴くことができないカセットテープを見つめながら、指先ではカバンの中にある、新品のマリンバンドの、新鮮な木の感触を楽しんでいた。

家に帰るとまずは空腹を満たし、早々と部屋にこもる。親からは集中講座の件や今後の受験についても聞かれそうだったけれど「疲れたから寝る」で逃げられるのがこの時期だけの受験生の特権だ。なにより昼食代や交通費のやりくりでお金を浮かせた後ろめたさもあったので、会話は避けたかった。

そそくさとラジカセにカセットテープを入れ、音がもれないようにヘッドホンで聴いてみる。すぐに曲が流れ出したので(良かった、空のテープじゃなかった!)とまずは一安心できた。結構な金額だったので、今の今まで(騙されてたらどうしよう)と気が気ではなかった。東京なんて、そんな簡単には行けないのだから。
一息ついて、テキストの方と照らし合わせて曲を聴いてみると、数字と矢印の表から、すぐにでもなぞれそうな気がしてくる。それは僕とQ君とで書いた音の地図とは違う記号だったけれど、目指すものは同じだった訳だ。

その音は新鮮な響きだった。初めて聴く「本物のブルース」のハーモニカ演奏だった。その音色は刺々しく、ザラザラとした耳に痛いほどの刺激があり、僕をドキドキとさせた。自分のハーモニカマイクで出してみた時よりもっと攻撃的で、「ワルな感じ」に満ちていた。教則テープなので、音楽というよりハーモニカをはっきりと聴かせるためにだけあるようなもので、音楽自体よりハーモニカにだけ興味があるような僕にはぴったりなバランスのものだった。

僕はすぐにでも、今日買ったばかりのCのマリンバンドを使って、そのテキスト通りに吹いてみたくて仕方がなかったけれど、テキストもハーモニカも誤魔化して作ったお金で手に入れたという後ろめたさから、歯を食いしばるように我慢をした。
もちろんその日は夜中まで、何度もこのテープを聴き直し、集中講座の方のテキストなどは開きもしなかった。

この東京の「夏季・集中特別講座」を終えた僕は、デザイン学校へと進路を決めた事で、美術大学を目指す生徒達のような厳しい受験勉強までは必要なく、ある程度はのんびりとした日々を送れるようになる。
今まで漫画を描いて来た膨大な時間が急に必要なくなったところに、買ったばかりのテンホールズをきっかけにして、再び情熱に火が付き、僕はただ当てもなくハーモニカの練習を始めるようになる。
教則テープは実践的なもので、セカンドポジション奏法をおぼえた僕の、次のステップにぴったりだった。

つづく


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