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116話 バーテンダー見習い

ほどなくして、僕はバーテンダー見習いとなって、ブルースセッションの常連客として通っていたライブBarで働かせてもらうようになった。
その最初の仕事はというと、店内ではなく、調理道具の買い出しから始まった。
音楽がメインという事で、マスターは今まで調理面にはまるで力を入れておらず、他のスタッフも誰一人そういった人材ではなかったので、僕を雇う最大の理由は、店の食事メニューを充実させる事だった。
そのために、まずは今まで揃えてもいなかった調理器具を買うところから、僕の仕事は始まったという訳だ。

僕は初めて業務用の道具街に連れて行ってもらい、数軒を回り、足りなかった調理器具などを買い足して行く。と言ってもそう大そうな物ではなく、まとめて仕込んで分割して凍らせておくためのタッパウェアのような生活用品がほとんどだった。
そのままマスター行きつけの業務用の冷凍食品の専門店にも回り、新しいメニューに活かせそうな材料の方を手当たり次第買いあさり、そのまま一旦店に移ると、早速試作メニューを開始した。
まずは手早く作れる事、そして僕だけでなく他のスタッフも同じように作れなければならない。材料も、安いのは当然の上、その日に手に入らなければ別の物に取り変えても違いが分からないようなものでなければならず、できれば賞味期限が長めのものが望ましい。

さらに器具や材料以外にも別の難問が待っていた。Barの厨房は想像以上に狭かったのだ。一つの料理を出さなければ次を作れないし、洗い物はまるで「ジェンガ」のように積み上げて乾かさなければならない。さらに特殊なのは、渋い演奏を聴かせる店なので、調理時の音を極力小さくしなければならない事だ。
かつてのラブホテルでの調理仕事では、一人で4つものコンロを併用できるほどの広さだったし、音の問題なんて考えた事もなかった。
まだ客のいない時間での仕込みならば、ある程度は店のカウンターの方にもはみ出しても構わないのだろうけれど、厨房からわずかにこぼれる明かりすら、すぐにBarのムードを壊してしまう。
もうこうなるとトム・クルーズの映画「ミッション・インポッシブル」の作戦のような状況での調理仕事ではないか。だからどこのBarにも、大した料理が無いのだろう。

マスターとの検討の結果、今までの店のレトルトメニューをやや自作っぽくアレンジしたリニューアルメニューと「バスケット(カゴ入りサンドイッチ)」と、「焼きおにぎりで作る雑炊」、そして僕ならではのオリジナルメニューのホワイトソースから作る「ドリア」と、ちゃんと卵を焼いて包む「オムレツ」が残った。
ホワイトソースを始め、いくつかのソース類はつくり置きができるし、少々の調理の手間が入るだけで、ぐっと手作り感が出せる。バスケットはトーストの延長線のようなもので良いし、何よりバスケットが囲みになって、Barの狭いテーブルには持って来いのメニューで、椅子しか出せないような混み合うイベント時にも、重宝する事だろう。焼きおにぎりは冷凍でどこでも手に入るし、スープを鶏ガラで作り置きしておけば調理も簡単で、呑んだ後のシメにもぴったりのメニューだ。
オムレツだけは卵で包む調理が難しいので、僕がいない日にはNGとなった。あとはどのスタッフでも簡単に作る事が可能だったし、仕入れ等の問題も全てクリアしていた。
という訳で、狭い場所で作る点はそれなりに技術が必要だけれど、とりあえず今までよりは遥かに食事面が充実した印象が出せそうだった。

僕の方がマスターに習った料理もあった。名古屋のご当地名物「あんかけスパ」だ。
「ヨコイ」という店が元祖らしく、その後名古屋のご当地グルメとなり、あんかけスパ専門店が多発し、その後はコンビニでも扱われるほどになって行く。
あんかけ部分はレトルトなのでなんの問題も無いのだけれど、具の種類が多く、なかなかの手間だった。またスパゲティーの茹で時間の長さも難問で、これをクリアすべくさまざまな工夫を検討する事にもなった。

そして僕にとって最大の難関が待っていた。僕は付き合いくらいの範囲でしか酒を呑まないため、酒の種類にはまるで詳しくは無かったのだ。ウィスキーのシングル、ダブルも分からなければ、ビールの泡加減すらさっぱりだった。
さらに頭が痛かったのは、無数にあるカクテルを作れるようにならければいけない事だった。客と当たり前のように会話をしながらでも、シェイカーをカッコ良く振れるのがバーテンダーだ。
当然僕はカクテルなんて飲まないし、注文した事すらなかった。無数にあるその種類を頭に叩き込み、お金が取れるレベルにまでしなければならないのだ。
とはいえ、カウンターの裏側にはあんちょこもあるので、それをバレないように上手く見られれば、後はシェイクの作業だけだ。慣れてしまえば、よほどの専門店でなければ、技術よりむしろ演技的な要素の方が大事なほどだ。

さらにここで、マスターは店の食事の充実を常連客にアピールする事にからめ、僕の店デビューにも知恵を絞っていた。僕の「とっつきづらい見た目」を、早急に一新させる必要があったのだ。
あえて不似合いな赤く派手な女性用エプロンをまとわせ「若くもない男が無理をして料理をしている印象」を出したのだ。鏡をのぞくと、自分でも(これはダサい)とため息が漏れたけれど、確かにこれならちょっとだけ相手が気を使わなくても済みそうな雰囲気になった。
僕がかつて行った「ハイレベルなセッション」を開催しているライブBarの店長さんも、話せば上から目線のとっつきづらい人だったものの、そのエプロン姿のダサさのお陰で、なんとなく親しみが湧いたものだった。
それに店内は薄暗い。僕はこれからは顔が良く見えない「バーテン」という記号的な存在となるのだから、自分の好みなどこの際どうでもいい。
さらに動き方でも、僕はマスターの指導を受けた。僕の動き方は無駄にバタバタとしていて、居酒屋の店員のように見えるそうだ。頑張っているように見えるのは、相手をくつろがせる仕事のバーテンダーとしては大きなマイナスらしい。とにかく静かに、ゆっくりと動く事が重要だった。
考えてみれば、僕が行った事があるのはミュージックBarばかりで、普通のBar自体を知らなかった。業種に慣れたつもりでいたけれど、演奏をしに行く側なんて、興味を持つのは音響くらいなものなのだから、そもそも視点が特殊過ぎるのだ。
僕は改めて、自分が良くは知らない世界で働くのだと思い知らされた。

慌ただしく準備期間が過ぎて行き、やっと後は働きながら慣れていけば良いだろうという段階までは来れた。
新しいフード・メニュー内容に合わせて、テーブルのメニュー表も一新する。かつてマスターから、字が気に入ったから書いて欲しいと言われたメニュー表だったけれど、まさか自分が料理するメニューを書く事になろうとは、夢にも思わなかった。

そして僕がいよいよ店員となった初日。
話を聞きつけ、大勢の常連さんが来店し、わざわざ店の裏口からキッチンを覗き込み、誰もが大きな声を上げた。
「あっ、ほんとだ!!ブルースハープの広瀬さんが、料理してる!?」
かなり古株な常連さん達には事前に挨拶をしていたのだけれど、さすがに今まで一緒に肩を並べてセッションを楽しんでいた客同士の関係が急に変わった訳だから、驚かれるのも無理はなかった。
僕は照れながらも、フレンドリーさを損なわない程度の敬語に変えて、挨拶をして行った。
そして、驚かれつつも、次に僕に掛けて来る言葉は誰もが同じだった。
「広瀬さん、ブルースセッションの方は、これからもできるんだよね?」と。

このBarで働いていたのは、何かしらの楽器ができるスタッフばかりだった。またバンド経験が無くても、後から歌だけ覚えセッションに加わったスタッフすらいたほどだ。大体、ライブBarなんてほとんどがバンドマンが腰掛けでやっているような業態なので、音楽が本業の人が、生活のために普段はバーテンダーとして働いているというのが常だった。
セッション参加について心配される僕は、嬉しいながらも、ちょっと気まずそうに答える。
「まぁ、手が空いていれば、大丈夫かもしれませんけど」
厨房中心の戦力として雇ってもらったからには、カウンターにはおらず奥のキッチンにいるのが多いくらいだろうし、むしろ暇だったらそれでもうクビなのだ。ここは「ぜひ!セッションも!」とは言えないところだ。
すると、中には露骨な質問をぶつけて来る人もいた。
「これからはアレかい、お仕事モードで、客のセッションのお相手してあげますよって、感じなのかい?」
いきなりこんな感じの事をいわれるので、僕は面食らった。言い方も、なかなかにトゲがあり、違う角度からも自分の立場が変わったのを思い知らされた。
こういう事を言って来る数人は、明らかに今までも僕を良くは思っていなかったのだろう。僕の演奏はウケていた反面、良くない注目も集めて来たのだ。例えハーモニカ以外の他の楽器演奏者でも、自分よりウケている相手を面白くは思わないものだ。
その後もちょこちょこ嫌味や皮肉が続き、結構なしつこさだった。まるで、僕が今までは裕福で恵まれた立場でいたのに、破産して召使いにでもなったかのような見下した言われようだった。まぁ、実際にその様に見えていたのかもしれないけれど。

僕は、赤いエプロンをスカートにようにひらつかせ、ひきつった顔のままヘラヘラと笑い、「いじめないで下さいよぉ~」とこびこびの声を出すしかなかった。

つづく


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