専門職ロボ
子供の頃、私は大変なショックを受けた。それはテレビCMで、新発売されたばかりのプラモデルの宣伝だった。
人間だったら友達だけど、ロボットだったら、ロボダッチ。イマイの、イマイの、ロボダッチ♫
振り向くと画面の中には、ロボダッチの基地らしき大型ロボットと、そこに群がる小さなロボットたちが映っていた。私は瞬間的に「大事件が起こった」と感じ、目と耳はテレビのまま、横山やすしがメガネを探すような手探りで、描くものを探した。見たものをある程度書き写せた私は、若い頃、数年だが運良く絵を描く仕事につけた。しかし、その頃の私が思い描いていた自分の未来像は、そのようなものではなかった。
なりたかったのは、「専門職ロボ」だった。職人気質なロボットと言い変えてもいいだろう。まぁ、子供の頃の夢なので。。。
残念ながら年を重ねてもロボットにはなれず、結果として着いた職業も専門職ではあるものの、実に不安定なものにはなってしまった。とにかく、子供の頃の漠然と描いていた自分の未来像に、ロボダッチは見事にフィットしていたのだ。
急いで描いたつたないスケッチを片手に、プラモデルを売っていた近所の駄菓子屋に走った。そしてそれはいつの間にか入荷しており、残念ながらその時の自分には買うことが出来なかった。名作『はてしない物語』に出会う前に、ファンタージェンは地続きの世界であることを知ったような出来事だった。しかもそれはかなりの近所に。
「ロボダッチ」とは、いわゆる個性を持ったロボットの集団で、タマゴロー、ロボZ、ロボX、ロボQといった中心的なキャラクターロボットたちと、「なんらかの専門的な仕事をもくもくと行うロボットたち」のユーモラスな世界を、いちメーカーが単独で商品化し続けたプラモデル中心のシリーズである。
このロボダッチには実に様々な魅力があり、ファンによって、その着眼点はかなり別れるように思われるが、私の興味は中心的なキャラクターたちではなく、あきらかにその他の「職業ロボたち」の方であった。とはいえ消防ロボや洗濯ロボのように実在しやすい職業ロボではなく、水中ロボやモグラロボといった人間では出来ない環境での仕事をするロボの姿に、激しく胸が躍ったのだ。
このロボダッチには「なかなかしっくりこない点」もあった。そのひとつがネーミングの統一性のなさである。例えば「水中ロボ」は、水中バイクとそれにまたがる操縦ロボットのことで、乗る側にも乗られる側にもそれぞれに顔がある。つまり気になるのは、どちらかというと乗られる側が水中ロボではないのか?という点であるが、この2台が一対で『水中ロボ』なのである。
では「バイクロボ」は、顔がついたバイクに操縦ロボットがまたがっているかというとそうではなく、手足で車輪を挟んで自分自身が乗り物の形になっており、ともすれば誰かに乗ってもらうための乗り物なのかとさえ思わせるデザインだったりするのである。
水中ロボと同じく巨大なガマガエルロボの上に乗っている忍者ロボも、一対で『ガマロボ』と名付けられ、巨大な鳥ロボにまたがった忍者ロボは、一対で『サスケロボ』というネーミングなのである。ハンゾーロボなどではなく「ガマロボ」、一方、怪鳥ロボでなく「サスケロボ」というのである。そういった統一されていないところが、またロボダッチの特徴であり、なんとも言えない魅力のひとつでもあったのだ。
当時の玩具は、まだテレビなどのメディア優先ではなく、商品自体の自己主張で売る商品ばかりだった。ポコポコ太鼓を叩いて笛を吹きつつバク転をする「ウサギのぬいぐるみ」が今でも売られているが、あれが良い例で、おそらく名前もなくテレビにもでないが、ストイックに己の存在価値だけで売れ続けているのである。
この点、ロボダッチはというと、パッケージイラストの魅力が商品力の中核で、プラモデル自体の完成度としては、正直かなり低いものだった。今のプラモデルのリアルさなどはまだ想像も出来ない時代ではあったが、当時でも作りは荒い印象があり、満足度は少ないシリーズだった。
商品は、「すごく欲しいロボ」と、「まぁまぁのロボ」、「そこそこのロボ」、「全くいらないロボ」の4個でのセット販売が基本で、当時4個で300円だった。バラで80円売りをしていた店に「75円では?」と質問し、小さいアメをいただき考え方を改めたことがある。やはりいつの時代もコミュニケーションは大切である。とにかくどのロボも楽しかった。夢があるとは、まさにロボダッチのようなもののことだった。
食いしん坊ロボ、先生ロボ、番長ロボにガリ勉ロボ。コックロボ、買い物ロボ、お風呂ロボにトイレロボ。レーサーロボ、つりロボ、テレビロボにドロボーロボ。買えなくても、手に入らずとも、売り場に見に行くだけで楽しかった。それぞれのロボットの存在理由や関係性に、常になんらかの疑問は残ってはいたが、ロボダッチの新製品の入荷にはいつでも新鮮な喜びがあった。
商品の魅力の大部分をしめるパッケージのイラストは、タッチがコロコロと変わり、普通の水彩から、ちょっとどぎついサイケデリックタッチのものを挟み、徐々にクセの少ないアニメタッチになっていった。
しかし、時代はガンダムを挟んで、一変する。いわゆる「ガンプラ」の登場である。いつの間にかテレビで放送されているものだけがホンモノと認識されるようになってしまった。そしてあろうことか、ロボダッチのようにメーカーが単独で企画したものは、歴史や実績があるにもかかわらず、まるでマガイモノのように扱われるようになっていったのである。
ガンプラからの流れと、一定アングラに続いていたタミヤのリアルプラモデルの流れが組み合わさり、球技や格闘技系のクラブや部活を頑張る一部の男子をのぞく全員が、狂ったように「戦うためのリアルメカ」の虜になっていった。
モビルスーツ、コンバットアーマー、重機動メカ、ヘビーメタル、ウォーカーマシン、オーラバトラー、アーマードトルーパー、ラウンドバーニアン、機甲兵。。。これらの知識がその後の受験などにおいて、一体どれほど多くの弊害をもたらしたことか。記憶喪失でも忘れなそうなこの知識は、おそらく墓場まで持っていくことなるのだろう。
無論、私もそれらに夢中になったひとりだったが、プラモデルには行かず、絵を描いたり工作などに没頭し、かなり孤独な日々を送っていた。加えてロボットの変形合体に異常に執着したため、仲間のいないカラクリ紙工作をもくもくと中学生まで続けていた。当然ロボダッチも自分には過去のものとなり、つい最近までは思い出すこともなかったのである。
いつだったか、人間だったら友達だけど、ロボットだったらロボダッチ、という歌が、フッと口をついたことがあった。当時、思春期の多感さから、「人間じゃないなら、友達にはなれない。お前らは所詮ロボット。ロボダッチで十分だ」という、人間上位のロボ差別のように感じ、その歪んだ企業理念から彼らを解き放とうと、そのあとに続く歌詞を、タミヤの、タミヤの、ロボダッチ、と変えて歌い、密かに満足していたこともあった。
それから30年以上が経ち、いよいよ『本物のロボット時代』が幕を開けた。結局、人型ロボットの登場は、現実的にはアトムの時代設定に間に合わなかったようだ。ホンダのアシモは驚いたが、直接見に行くほどの衝動は、自分の中には生まれなかった。けれども、心のどこかには、仕事をするロボットへのあこがれが密かに生きていた。そして、ごく自然に、40歳後半で、私もロボットに出会った。ペッパー(pepper)である。それは近所の電化製品専門店ノジマの携帯ショップでの対面であった。
ペッパーは一方的にひと通り話し掛け、胸のパネルからコンテンツを選ばせようとする。私は彼の手の作りがとても気になった。握手は出来るのか、荷物は持てるのか、落ちているものは拾えるのか、温度は感じるのか。ペッパーはいくつかのショップに配備され、簡単な接客を開始しているらしい。近い将来、これらのロボットが介護の現場に入るというが、本当に何かが出来るのだろうか。家庭用にも販売されるようだが、洗濯物を一時的に持っているといった子供のお手伝いくらいなら出来るのだろうか。
胸のモニターを使い、質問やゲームを繰り返すペッパー。身体中を動かし、ふざけたりギャグをやるペッパー。
気がつくと私の中で、大きな何かが音を立てて崩れていた。これは、あきらかに「私があこがれていたロボット」じゃない、と実感したのだ。そして不安定な感情が、なぜか急に「ドラえもん」への激しい怒りを生み出したのだ。専門性がないロボットなら、なにもやらせる必要はない!!そんなことなら、今まで通り人間がやれ!!と。
もちろん、ドラえもんは素晴らしい作品であり、ダメ主人公に過保護ロボットなどとアメリカ中が悪く言おうが、不朽の名作には変わりはないと言い切れる。だが、ロボットとしてはドラえもんには、実際なんの魅力も感じたことがない。なぜなら、私がロボットに求める、なんらかの専門性を全く感じないからだ。それがフォルムにも出ている。ただの愛玩系の人型だ。
お友達ロボットなら、私は必要ないのだ。世話焼きロボットなら、衣食住、何かに特化して欲しいし、あるいは戦闘力、防御力、最低限、陸、海、空の移動においてメカ的な何かの機能は欲しい。それらの特化された何かがない段階で、ロボットに生まれた意味はないと感じるし、ましてや時折、「腹を立てる」「スネる」など、感情らしきものを出されるのだとすると、かえって生活に支障を来たすというものだ。
ロボダッチを見ろ、ロボダッチを!!あの専門特化されたフォルム、存在性、淡々とした表情で続ける、圧倒的な職人仕事の数々!!親しみを感じる友達ロボットなんていらない。私が見たいのは、ロボットらしいロボット。いろいろなことは出来ない、何か一種類しか出来ない、けれどもそれだけならば、確実にズバ抜けた能力を発揮できるロボット。その偏った部分が魅力であり、ロボットの価値なのだ。だからこそ、友達にもなりたいのだ。
心を通わせることは出来ないかもしれない。関係は常に一方的で、所詮君らを道具のように扱うだけかもしれない。けれども、やっぱりカッコイイ!と思わず叫んでしまう特別な仕事を見せてくれたなら、私は君たちを、決してただの機械とは見なさない。
ああ、友達になりたい。一方的に頼るだけの関係だけど。何かの作業をやってもらいたいだけだけど。頼もしいあなた。そう、君は、ロボダッチ!!
もし、今の時代にロボダッチシリーズが続いていたら、一体どんなラインナップになっていたのだろうか?
スマホロボ、というスマホに夢中なロボや、ドローンロボという、ドローンにまたがって自分からもなぜかプロペラが出ているロボなどがいるかもしれない。便乗ものの妖怪ダッチシリーズ、ひょっとしたらポケットモンダッチなんてシリーズもあるかもしれない。
極端にいえば、存在し続けて欲しいのは、パッケージイラストだけでもいいのだ。今やロボダッチが育てた日本中のモデラーたちが、それこそ量産も金型も関係のない、メーカーを超えた一級の仕事をしてくれるであろうから。彼らこそ休まない、そして妥協しない、そう、彼らはフィギュアロボ、あるいはフィギュア作りロボなのだから。
私は何かを作る人ではないが、ロボダッチのように、なにも考えず、疲れや老いもなく、利益や人間関係も考えず、時代の変化や社会的ニーズに目もくれず、もくもくと、何かの仕事だけを続けたい。
やっぱり、今でもなりたい、ロボダッチ。。。
人間だったら友達だけど、ロボットだったら、ロボダッチ。
イマイの、イマイの、ロボダッチ♫
2016.9.7