無駄なものこそ人生を豊かにする
考えてみたら意外と当たり前な気もしてしまうんですが、個人的にはけっこう大きな気づきだったのでnote書くことにしました。
よく「無駄なものこそ人生を豊かにする」なんて言うじゃないですか?サークルの先輩の口癖でもあって確かに言いたいことはわかりますし僕もそれに賛同していたんですが、それに理論的な説明は出来ずにいたんですよね。
最近合理性・生産性の話が問題になってたりしていましたが、未だにそういう考え方をしている人は意外と多くいて、例えば杉田某さんみたいにおおっぴらに世間を敵に回してまで生産性の名のもとに人権侵害をすることはなくても、みんなどこかしら今何かやっていることをどこか未来の目標や成果に結びつけようとしているんじゃないかと思います。
塾でバイトをしていてときどき思うのは、高校を大学に進むための勉強期間やそれを学ぶためだけの場所であると捉えている人があまりに多いこと。きっと大学に進んでも就活のために、就職しても老後のためにと目的を先延ばしにしていつの間にか人生が終わってしまうのだろうと思わないのかなぁと思ったりします。
「構造と力」において、近代の熱い社会は「過剰な方向=意味を一定方向に回路付け果てしない前進へと駆りたてる」ことでその秩序を保っていると述べられているとおり、私たちは良くも悪くもあまりに近代的な思考に侵されているようです。
なにか絶対的な到達点があるわけではない。走ることそのものが問題なのである。一丸となって走っている限り、矛盾は先へ先へと繰り延べられ、かりそめの相対的安定感を得ることができる。
一方で世の中にはあるもの、ことに対して生産性・有用性を超えたところで価値を見出す人もいて、それは近代的な観念から言うと非効率的で意味の無いことのように思えるのですが、それはそれで重要なのではないかと思うのです。
先ほど確認した近代の前へ前へと進もうとする態度は確かに走り続けている間は安定しますが、バタイユも述べているように「成長は本来が一種の暫定状態である。無限に持続するわけにはいかない」わけで、どこかで終わりが来るわけです。極論をいえばなんびとたりとも死からは免れぬわけで、そこにおいては効率、生産性などなんの意味も持たないですし。
そう考えるとそもそも人間の存在、生きていることそのものが生産性のない行為である以上、その在り方を認めることが必要になってくるわけです。
そこで最初の議論に戻ると、人間が本来無価値、非生産的営為なのであるとすれば、それは非効率的・非生産的と切り捨ててきた「無駄なもの」とどこが違うのでしょう?
無駄なものを愛するとは生産性のないものへの肯定であり祝福であり、それは言い換えれば自分の存在そのものの肯定であると言えないでしょうか。
ニーチェは人間本来の虚無に耐え、ルサンチマンに陥らずに生きる人のことを「強者」と表現しましたが、無駄なものを愛するとはそのアナーキーを直視し、同時にそれを肯定することに繋がるのではないかと思います。