『マーターズ』みた むしゃむしゃ噛むの回
今日はなかなかやるべきタスクをこなせたような1日の気がします!
洗濯もできたし。
うれしいね。
のろのろしてて火、水と映画を観れなかったので、今日は観る!
ツイッターでたまに鬱映画と紹介されている『マーターズ』です。
2008年のほうね。オリジナルの。
なんとなく観てなかったので、なんとなく本日はこちら。
なんとなく観てなかったけどすごく良かった!わたしは何をしていたんだ!てなる作品たくさんありますからね。
今回は、違いました!
感想に移ります。
不快〜〜〜〜〜〜〜〜〜!
これに尽きますかも。
どんなにグロテスクでも、バッドエンドでも、主人公が最悪になってしまっても、それが切実であるならば愛を感じられるし、美しさも見出すことができるんです。気持ちはたくさん抉られるけど、不快ってことにはならない。大笑いすることもあるかも。
でもさあこれはさあ、そういうの感じなかったです。
アンナは(極限状態で生み出したであろう幻覚の)リュシーに導かれるようにして「殉教者」になるけども、そこに愛があるのですかというと、あんまりそう見えない。
今までアンナとリュシーにどのくらいの絆があるのかよくわからないから。なんなら、初めの方はなんとなく噛み合ってない感じもした。アンナはなんでそこまでしてリュシーについてきてあげられるの?いやそうだし。
愛じゃないとしたら、何によってアンナはリュシーを見ることができたのか。
それって単に、想像するサンプルがリュシーか、あの目のない女だけだからじゃないのかな。同じ体験をしたであろうリュシーに助けを乞うような形でリュシーをみるけども、う〜〜ん絆レベル足りてる?
このくらいの絆レベルで「殉教者」になれちゃうなら、4人どころかもっとできたんじゃないかな。
皮剥ぎが効いたのかも?
何かが見えるようになる→殉教者になる
の過程で何が起きているのかぼやや〜んみたいな映像でしかないから、納得いかないのかも。いちばん大事な過程じゃないのかな。
この宗教団体?の実務担当の人たちがどのように信仰を保っているのかも気になった。
信仰の為とはいえ、実務担当の人は相当な負荷がかかると思うのだけど、平然と機械的に成し遂げられるようになるまでどんなことをした・されたんだろう。なんだか健康そうだしね。
なんといっても納得いかないのは、「死後の世界」を完全に聞こえないようにしたことだよ!
これは、あなたの解釈次第です…みたいなことってよくあるけども、これに関しては何も定まってなさすぎる!
どんな陳腐な言葉でもいいから、聞きたかったな。
ここを聞こえなくするんだったら、殉教者になる過程をしっかりみたかった。
わたしたちは大事な瞬間に何も立ち会えていない感じがした。
もしかしたら、アンナとリュシーにはかたい絆や愛を確信できるような瞬間が過去にあったかもしれない。
そこをみたかったのかもな。
愛によって達成されてほしかった。
そんな感じです。
いつもだったら、ケーッ!クソおもんな!で終わっちゃうし、今回は更に不快でたまらなかったのですが、丁寧に書き起こしていくと、不快さも噛み砕かれていくようでした。
いいかんじと思います。健康に良さそう!
次はうれしめの話をしたいかなと思います。
またね。