うさぎが死にました

前回の続き

僕たちはうさぎを飼っていた。
「ジョイ」という名前で、奥さんが付き合う前から大切にしていた8才を超える老兎だ。(うさぎの平均寿命はだいたい7年くらい)

息子が生まれる2日ほど前からジョイの様子がおかしくなった。
うさぎは本来、起きている間中ずっと何か食べ、ずっと排泄する動物だ。
それが一切うんちをしないし餌も水も摂らなくなった。老いで消化機能が弱まっていたところに換毛期が重なり、腸に毛玉が詰まってしまったようだ。
病院に行ったが、貰った薬も飲もうとしない。
みるみる衰弱していく彼と、いつ陣痛が来てもおかしくない奥さんを同じくらい心配に思った。

ジョイが亡くなる前日の夜、ずっと床に臥したままの彼を励まそうとOasisのDon't look back in angerを弾き語った。(その時は死ぬなんて思ってなかったからね)

するとどうだろう、彼はゆっくり起き上がりこちらを向いて僕の演奏を聴いているように見えた。そして給水口のところまで顔を持ち上げ、懸命に水を飲もうとしたのだ。
僕と奥さんは声をあげて喜んだ。

特にCコードを鳴らした時に反応が良いことを奥さんに伝えると、
「CCCCC!!!!!! C、C、C、C!!!!C!C!C!!!」と、ファミレスのキチガイ客の剣幕でスープとサラダを追加して来たので、そこからは全く抑揚の無い前衛音楽を10分ほど弾き続けることとなった。

夜が明け、奥さんの陣痛を訴える声で目が覚めた。
ジョイは生きていたが、餌と水は少しも減っていなかった。

先述の通り奥さんを病院に連れて行った僕はまたすぐ家に戻った。
ジョイは明らかに今朝より容態が悪くなっているようだった。動物病院はお昼で休診時間。

慌てて奥さんのお母さん(看護師。うさぎ飼育歴数十年)に電話し、ぬるま湯浣腸のレクチャーを受けた。詰まった毛玉をお湯でふやかして整腸を促そうという算段だ。
暴れないよう洗濯ネットに彼を入れ、肛門を探すが、どこにあるか分からない。それらしき穴に注射器を差し込むが全く入っていかない。
ジョイを抱えたままスマホで調べたが要領を得ず、結局浣腸は失敗に終わった。
普段は抱っこすら嫌がる彼が、僕の膝の上で一切の抵抗せず肛門を好き放題させている様子を見て、余程弱っていることだけが分かった。

そこへ奥さんから「きて!」と電報。病院へ向かわなければならない。
僕はジョイをケージに戻し、タオルをかけ
「大丈夫だからな!!!!!!頑張れよ!!!!!!!」的な声を掛け、家を後にした。

そこから壮絶な出産が終わり、可愛い我が子にも会えホッと胸を撫で下ろしたが、頭の半分はジョイのことでいっぱいだ。
奥さんも全てを理解しているので、潔く僕を送り出した。

帰りの車中で動物病院へ電話し、その日は予約がいっぱいとのことなので明朝すぐ診て貰えるよう約束を取り付けた。
家に帰ると、ジョイは既に息を引き取っていた。息子の誕生日が命日になった。

家を出た時と全く同じ体勢で、開いたままの目は涙で少し潤っており、触るまで死んでいることが分からないくらいそのままの姿だった。

奥さんにどう伝えていいか分からないまま取り敢えず電話し、2人でしばらくわんわん泣いた。

葬儀屋の手配や、動物病院へキャンセルの連絡など、事務的な手続きを済ませ、1人になった後でまた大きな声を出して泣いた。
あの時僕が浣腸を成功させていたら。休診時間でもなりふり構わず病院のドアを叩いていれば。そんな後悔が嫌でも頭に立ち上り、大声で泣く以外の発散方法を僕は知らなかった。

本当に頭が痛くなる程泣いた。
涙が本来の出口を塞がれ、顔面の肉や臓器を押し除けながら仕方無く両目から噴出したと思われるほど、苦しくてつらい夜だった。

翌朝、奥さんが入院している婦人科へジョイの亡骸を連れて行き、お別れを言った。そこでも2人でわんわん泣いた。
でも、どう考えても辛いのは、赤ちゃんの頃から世話をしていた彼女の方だった。

きっとジョイは心配をかけないように、彼女が発つまでは生きてる姿を見せ続けたのだろう。彼女に大切にしてもらったこと、幸せだったことはちゃんと覚えている。あんなに賢い子だったんだから。
思い付く限りの励ましの言葉を彼女にかけた。

ジョイを失った悲しみは、同じ日に生まれた息子と生きていく内に徐々に癒されていくだろう。
だけど、忘れないで。いつまでも覚えていて。
寂しがり屋なうさぎがそう言っているような気がした。

ところで、その日生まれた息子には「朔太郎」という名前を付けた。これは生まれる前から僕が考えていた名前。
「朔」という字には次のような意味がある。

ものごとの始まり、初心忘れるべからず、という意味を込めて付けた名前だが、どうやらそれだけでは不十分なことが分かった。

月の満ち欠けは、当たり前だが1ヶ月で一周する。
月が一生を終え輝きを失う時、それは再び輝き始める瞬間でもあるのだ。

つまり朔とは、「(いつかは終わるという宿命を背負った者、或いは一度終わりを迎えた者の)はじまり」なのだ。
奇しくも同じ日に死んだうさぎが教えてくれた新たな意味を知って、息子の名前が大好きになった。


月の始まりと終わりに見かけ上の違いが無いように、誰かが生まれたり死んだりすることに意味は無く、そこにはただ時間の経過があるだけだ。
それでも僕らが誕生を喜び、死者を弔う際に涙を流すのは、僕らもまた満ちては欠けを繰り返す大きな円運動の真っ只中にいるからなのだろう。

新しく世界を照らし始めた彼と、役目を終え月に帰ってしまった彼、2人ともに最大級の賛辞を送りたい。
今度は客席のサポーターとしてではなく、これまで一度も途絶えることのなかったバトンを繋ぐ、走者の一人として。

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