見出し画像

「夜と霧」覚え書き

アウシュビッツに収監された、精神科医、ヴィクトール・E・フランクル著「夜と霧」より、いくつか抜粋。


かつてドストエフスキーはこう言った。
「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」

およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在は初めて完全なものになるのだ。



著者のフランフル氏は、ナチスにより、悪名高きアウシュビッツ収容所に習慣された。
すし詰めの列車から開放された後、最愛の家族とも引き離され、いつ終わるともしれない収容所生活へ。

容量の良い人、衰弱等である日、見かけなる人。
真冬のボーランドでの屋外作業は、さぞ過酷だっただろう。
食事や労働(的なもの)等々様々なことが起こる。
最初は、いつ自分の番なのかと、命の危険を感じることも。
ある時期から、精神科医の経歴から、カウンセラーのような役割も与えられたとか。

そしてある日、声がかかる。
「ついにこの日が」そう思ったのも無理はない。
収容所の人数は限られているにも関わらず、食料不足や栄養失調、新たに収容される人…

人生の終焉を感じながらも移送列車へ。
長い旅路にふと疑念が湧いてくる。
どうやら、いつの間にか、南部の方へ移送されているようだ。
いつくもの山間部を越え、長い長い移送期間を経て、ある収容所へ。

そして、幾日かが経った日、開放。
連合軍兵士からも事情を聞いたようだが。
家族の安否を真っ先に考えそうにも思ったが、自身の無事も信じられなかったのではないだろうか、とも感じた。


原本を加筆した書物の翻訳版である。
とはいえ、極限状態の渦中、そして、長い(日時の経過というよりも生命で感じる時の長い)期間、一日先の命も知れぬ、日々は、永遠に続くのでは、とも思ったのではないだろうか。

次元は異なるかも知れないが、現代社会にも通ずるのではないかと感じた。
いつ果てるともしれない、閉塞感に引っ張られる日常。
平均以下の収入でやりくりする日々。
若い日の長患いや長期療養などで、いつの間にか無理が効かない年齢になっていたりもする。

この著作を読んで、かなりの時間が経つので、曖昧だったり不正確な記述もあるかもしれない。
しかしながら、運良く生きながらえている、その点は共通しているのではないだろうか。
ましてや、今は時代の大きな変革期にあたる。
伝統的な企業は、所謂、大企業病から脱却できないでいるが、現代に合わせようとの努力もしている。
一方の労働者側も、法整備(やや遅れて入るが)も進み、以前よりは思考や社会通念の自由度、それが例え仮想であれ選択肢は広がっているようにも思える。


あなたが今、見えている世界を教えてほしい。
この一年で、何が変わりましたか?
また、いつかお会いして、どう感じ、何に興味があるのか。

ー2023/10に八王子でお会いした、とある後輩に聞いてみたい
そんな事を思いつつ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?