エッセイ「生きる理由」
私の生きる理由とは何だろうか。
そう考えることがよくある。生きる「意味」という話でいうと、とうの昔に「そんなものなどない」と結論付けているのだが、理由ということになると、その答えがちらついたり、消え失せたりする。そもそも理由という概念もまた存在しないものなのかもしれない、そう思いもするのである。
先日、私は友人を食事に誘い、食事後にカフェで長時間の会話をした。その人は中学からの友人(友達という方が本来ニュアンスとしては適切なのだが)で、詩を読んでもらったり、相談したりと、なにかと信頼している一人である。私は抹茶ラテを注文し、椅子に腰かけた。その後友人とは様々な話に花を咲かせた。
友人と話すことは自分の文学につながることが多い。自分の詩のテーマはよく人間関係や恋慕、憂鬱、生死といったものになり、友人とはちょうどそのような話題を深く話しているので、このエッセイ含め何かを書こうという気持ちにさせてもらっている。その日も私は友人に恋の話や文学、生き死にのことを話していた。
話し始めてからどれくらい経ったであろうか、死生観のことが話のテーマとなった時、私が深く共感できることを友人は口にした。それは「親より先に死なない」ということであった。これまでを振り返って、私は親の愛を受けながら育ってきたことを強く感じる。家庭環境も恵まれているほうだと思う。「親より先に死なない」というのは、親に恩返しをするうえでの最低条件、という意味もあり、最大の恩返しという面もあり、また自分が死を望みそうになった時に真っ先に親を思い浮かべる為いつまでも死ねないという側面もある。家族がいるから命を捨てることはできない。その代わりに命を削るように必死に生きるしかない。このような感情を預けるのはまさに家族にしかできないことであり、友達相手には少々重いと感じる。家族愛というのは年齢と同じ時を重ねて成り立つものである。例えば父は正直反面教師的な面もいくつか見受けられるような人ではあるが、根は優しく、我々の為に真面目に働いてくれており、日々感謝している。長所・短所全てを包含したうえで積み重ねられる日常や強まっていく絆を通して、家族への思いは何よりも強いものであると感じる――――。このような内容の話をした時、友人は共感してくれた。素直に嬉しかった。築き上げてきた価値観の答え合わせができたような気がして、非常に幸福であった。友人とはまた会って話したいと思っている。
「命」という話でいくと、どん底に置かれたとき、私を救うものは詩と約束である。詩というのは、己の内側から出していく言葉の積み木のようなものであり、時として詩はガチャガチャしたものになる。しかしどん底の中で命を削り、何かを燃やして書き上げたという証を残した実感は何にも代えがたいものであり、それが何度も私の命を延ばしてきた。また約束というのは、他者との契りである。そこには守らなければならないという制約が課されることとなる。約束を守るうえでの絶対の前提は、他ならぬ「生きていること」である。これが有効であるうちは常にその相手の顔が浮かぶ。死の向こう側にある相手の感情や表情。想うたび、死んではならないと思わされる何かに出会う。だからこそ、約束は絶対に破りたくない。破られたくない。守るべきものだ。そう思うのである。究極的に、約束とは延命措置なのだ。
反対に、私を堕とすもの、殺すものは何だろうか。例えば恋や友人関係。他者というのはアイデンティティに少なからず干渉するものだ。発した言葉や価値観に強く影響を受ける。自立心、独立心がなければなおのこと。私は人間依存の強い気質を持っている。口癖や生活における意識など、私の中のどこかには友人や愛する人の断片が存在する。そして不安だからであろうか、特に恋い慕う人に対してはおおよそ全ての出来事や言葉が記憶に刻まれ、それらは喜びとなったり、傷となったりする。そのように積み上げた時間の中で他者に向けてきた優しさは、本物であったか、詭弁のようなものだったか。出会った誰もが大切であるからこそ、このような自己の迷いが生じてしまう。恋しい人や友人はどんなときも私に生きる力を与えるが、その関わりの中で向き合った自分という像に気を病んでしまうことがある。堕とす、殺すといっても、恋や友人関係は間接的要因でしかない。全ては自分の内面と言葉なのだ。
このように様々考えた時、言葉というのは思いの外強いものであることに気づく。大したことないような顔をするが、ある時には人を殺すほどの衝撃を与え、ある時には人の心や命を救う。また時には思考に奥行きや深みをもたらす。そして言葉は行動と連動している。例えば詩や文学には技術という裏づけがある。その技術を支えるものは創作欲と努力である。作品の裏側に行動が見えてくるのだ。また約束を守らない人や言葉をすぐ裏返す人は信頼を失う。言葉の信用価値が希薄なものになるからだろう。言葉の信用価値を失うとは、言葉の周りや向こう側にある言葉なき世界に対して本来見えているものが失われるということだ。その瞬間に言葉は霧のような存在になってしまう。言葉が言葉として体をなす為には、言葉だけではない何かが示される必要があり、それが形となって相手に安心感をもたらすのだ。しかし、形ばかりが意識されるようになると言葉の存在価値が希薄なものになり、証がなければ常に不安になってしまう。信用とは期待や不安など無くとも言葉の延長線上が見えることなのかもしれない。だから信用は難しい。
「言葉」という部分に主眼を置きつつ話を本題に戻そう。私の生きる理由とは何なのか。そもそも理由は存在するのか。「理由」で辞書にあたってみる。『明鏡国語辞典』によると、「①物事がそうなるに至った事情。また、そのようにする根拠。わけ。②いいわけ。口実。」とある。『新明解国語辞典』には、「①その人(時)の行為を正当化し根拠づけるものやこと。②何がもとになってその事柄が起きたかについて、理屈でつじつまを合わせたもの。」とある。これらの定義に基づいて考えた時、やはり「理由」などというものは存在するのかと思った。というのも、ここでいう「生きる理由」とは単に「死なない理由」「死んでいない理由」ではない。「活力を持ち、この世の中で積極的に人生を歩んでいく理由」という意味である。そうした時に、これをわざわざ正当化する所以はあるだろうか。そうなった事情などあるのだろうか。口実、というものもない。私が「生きている」のは、理屈やつじつまを合わせたが故のものではない。今私の身体を巡る動的活力は、どことなく自然的であり、外的要因はあるにせよ、それを論理的に与えたものではない。湧いて出てきたものなのだ。仮に「死なない理由」ならば、家族の存在のように事情や言い訳などが言語化されるかもしれないが、言葉の定義が先述の通りであるならば、生きる「理由」というものなどそもそも存在しないのかもしれないと思った。
ここでもう一つ考えたくなった言葉がある。「目的」である。生きる「目的」ならばどうか。旺文社『標準国語辞典 第七版』では、「実現したり、手に入れたり、到達しようとしたりして、めざすことやことがら。ねらい。目当て。」と書かれている。
生きる目的、すなわち生の活力をもって成し得たいこと――――。
これは生(生きるエネルギー)がそもそも前提におかれた言葉に感じる。そしてこれならば、己の中に在るような気がした。くさい話かもしれないが、愛する人を幸せにしたいというのが最も頭の中にあることである。また「生死」や「愛」などのテーマのもと、自分の文学を築き上げたいとも思う。この二つは連関していて、共に成されて初めて目的を達成したといえるようなことなのだ。私の中には、生きる「意味」や「理由」はないが、「目的」は存在するらしい。
私は生きる「目的」を得て今日この頃を生きている。詩を書く。文学を積み重ねる。愛する人に言葉を贈る。私に笑顔を見せてくれる。生きているという土壌の上に、何かが毎日起こっている。そんな世の中で、今日も明日もひたむきに歩んでいきたい、と思うのである。