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ビルディングスの根
いままで「やりたいこと」だと認識してやっていたことが実はそれをやれている人に憧れていたってことだったのかもしれなくて、別にやりたくはないんだ?っていう気づきが最近きてる。
4月から現場が始まった。年明けてからは、去年の過労や実家の改修などをやっていたこともあり、ゆっくりやってた。3月とかは現場の設計や準備をやってた。そんで現場始まった。
はっきり言って現場楽しすぎてどうしようという感じだ。どうしよう、っていうのは他のことが霞むからそう思う。
現場には僕にとってかなり多くのものがある。
施主との言語と非言語のコミュニケーション、資本主義システム上の物資の調達とシステム外の物資の調達、計画と実行の相互作用とバランス、理性と衝動、スプリントとチル、肉体と精神の統一、仲間との非言語のコミュニケーションの甚大な情報量。
シンプルにずっと笑ってるな。そんなことで金ももらえて、人に金も払えてる。ホイジンガ著のホモ・ルーデンスによる“遊び”の定義と僕にとる現場の感覚はかなり近い。その書には、遊びとは、定められた時間と空間のなかで、絶対的な拘束力をもった規則によってなりたつ活動であり、その行為自体が目的となっているもの。とある。そしてヒトとしての我々の最も根源的な活動ともある。
ぼくは、まだ現場の範疇に入っていない膨大な量の情報を、できる限り現場の中に持ち込んで、持ち込んで、死にたい。
現場で死にたい。
早く現場で
死にたい