国家の品格_前編
背景
産業革命以降、文明の発展には論理や合理の上に成り立ってきた。しかし、現在はその論理を過信し、人間社会までに展開てしまったために、日本を含めた先進国が荒廃していると筆者は指摘する。では、なぜ論理や合理に基づいているのに、負の効果が表れているのか?論理の限界とその克服方法について、筆者が考察している。
論理の限界
なぜ論理的に考えてても、人間社会の問題を解決できないのか?具体的には、以下の4点つの限界がある。
①論理の限界:人間である限り、その論理には限界がある。具体的な例としては、アメリカでは、小学校にて、英語を教える代わりに、タイプを打つことを教えた。その結果、英語の読み書きの能力が低下したという問題点が出てきた。
②重要なことは、論理で説明できない:最もわかりやすい例は、『人を殺してはいけない』ということは論理では説明できない、ということである。さらに付け加えると、数学という論理的な世界でも、不完全性定理によって、論理的に正しいことを判定できない命題がある、と証明しているくらいである。
③論理には出発点が必要だが、それを決定するのは人間の判断である:AからZまでの、それぞれの事象の関係性(A→B→・・・Zの矢印)は、論理によって説明できる。しかし、Aを出発点に選ぶことは、上記理由から”論理的”には決定できない。となれば、人間の主観が介入して当然である。ゆえに、論理だけでは、正しい終着点に辿り着くことは不可能である。
④論理は長くなりえない:数学では、A→Bのステップが長く続いても、それぞれの判定は、シロとクロしかないので大きな問題とならない。しかし、人間社会では、シロとクロで分けられないグレーという領域が存在している(というか、絶対シロ、クロが存在しないのが人間社会。どちらの主張も一理あって当然である)。各ステップの確度が低いために、論理が長くなると信頼性を損なう(一方で、短いステップの論理は深みがなく、役に立たない)。
論理の起点を疑う
①~④を総合して考えた際に、最も心を揺さぶるのは、自由や平等についての以下の議論である。
イギリスを代表とする思想家のジョン・ロックは、自由で平等な人間が、理性によって自発的に契約し、それによって国家を打ち立てた※という『社会契約論』において、アメリカの独立宣言などに多くの影響を与えたと考えられている。しかし、このロックの論理の起点は、キリスト教の世界観を前提に唱えられていると言われている。つまり、現在最も常識的な概念である自由や平等についても、実はその論理思考の起点が、宗教的世界観であることを考えると、社会へ強い拡散性と、論理の限界(もちろん、それが悪いとか良いとかの判断はここでは議論しているわけではなく、出発点によって、いかようにも終着点が変化する可能性があることを示唆している)を感じざるを得ない。
では、どうすればよいのか?その点について、筆者は情緒や形を見直すべきだと主張している(後編へ続く)。
https://note.com/hamarn/n/n552cfa9cbc23