恵まれている方から宗教的連帯への理解は可能か?
現代って宗教的連帯というと、新興宗教のそれっぽいイメージ強いじゃないですか?
まあ新興か?伝統的か?の違いもある程度意味があるのかもしれないけれど、とりあえずその違いは脇へ置いておく。
宗教にマジで頼る気持ち。
それが、ない人にとって、理解しうると”言える”か?
「マジで頼る」というのは、別に宗教施設に住みついていたり、ほぼ毎日お祈りなど宗教的行事・儀式のために通っていたりしなくてもいい。
あまりに日々辛すぎるというか、日々、一日が終わると、「今日も生きてたか」という実感がかなり濃く感じられてしまうような状況だと、さすがに内心何か拠り所を求めているというか、我知らずとも確保している、ものらしい。
すると、例えば、同じ匂いのするというか、事実同じような日々を送っている者とすれ違ったりするとき、挨拶代わりに、「神のご加護を」みたいな言葉や、言葉でなくともお互いに理解可能なジェスチャー(例:はた目からはただのグータッチみたいなのでも)を交わしたりするのがわりと頻繁に観察されるらしい。
そういうの。
それって宗教的連帯なんて言うの?って疑問に思われるかもしれないけれど、私としては、宗教的連帯かなー?と。
私自身は到底そこまで追い込まれた経験もなく、、、。
でも知りたいというか。。。
逆に追い込まれていなくても恩寵を感じることってできなくないか?
そのために、自然と「神のご加護を」って仲間(と見做して)口をついて出てくる感じ、ってより精密に理解できれば、ヒントになるんじゃないのか?と。
まあそもそも”分析っぽい”のからして「違う」と言われればそれまでなのだけれど。。。
こうなんというか。。
自らのコントロールが到底及ばないものについて思いを馳せるということがもっと自然と習慣付かないか?
諦めてしまう、完全に何かに降参してしまうというのではなくて、ただ傲慢になり過ぎないために。
そのへんの微妙な感覚。
大事かなーと考えているのです。