うすのろは抹殺される?
ネアンデルタール人というのは、非常に現生人類と似ていて、交雑も起こっていたと言われる。しかし、遺伝子的に定義される種としては、既に絶滅してしまっているという。(ネアンデルタール人っぽい人がいても、それはあくまでも現生人類であって、ネアンデルタール人の末裔ではない。)
どのように棲み分けが行われていたのか(或は共同で生活していたのか??)は私には分からないが、同時代に生存していた種の内、一つは現在まで生き残り、一つはもう存在しない。
生き残ったものが語るわけだから、いなくなってしまった者たちの真実は知る由もない。しかし、同時代にその存在ぐらいは認識されていた者たちなのだから、「ああ。最近見ぃひんなぁ。」ぐらいのことはあったのではないか?
全くの想像でしかないのだが、我々人間のもつ傾向として、圧倒的に脆弱な方のものには、何らかの情が湧くもの。勿論大勢としては、いくら情が湧こうが、ほぼ具体的には何もできず、ただ情が湧いたというだけで事実としては何も残らない。(即ちネアンデルタール人は絶滅した。)
関連する話で、バイキャメラル・マインド・ピープルという説がある。
私たちは成長すれば当たり前のように「私は意識をもっている」とか「私は●●ではあるが△△ではない」などと、自意識を持ち、自他の区別をはっきりとさせることができる。しかし、赤ん坊や幼児がそうであるように、昔々人類或はその祖先は、やや曖昧な自他意識しか持てていなかった時期があったのではないか?
で。ちょっと衝撃的なのは、我々現存する人類、つまり、よりはっきりとした自他意識を持てるものは、そうでないものをわりかし意識的に抹殺してしまったのではないか?というもの。
そんなものの末裔なんだもの、わたしたちだって「なんらかの理由」をつけて、静かに抹殺されかけているのかもしれない。
とかいって脅しをかけておしまいにするのは私の好みではない。
あなたや私は抹殺している側にいるのかもしれないし。
では。
抹殺し、抹殺されるというような人生。抹殺されず生き残れたとして、生きてて面白いですか??
面白さ。
これ大事だと思うんですよね。
「いや。そりゃ面白けりゃ面白い方がええけども。。そんなもん追い求めている間に他に出し抜かれて、食うていけへんようなったら元も子もないやん?」
ってこと言う人多そう。
でもね。
食うてたって面白なかったら、、、それって何か意味あるんですかね??
いや。そのうち面白なるから。
ということを多くの人が言う。
抹殺された、或は今まさに抹殺されかけている人が存在するかもしれないその時に、あなたは「ただ食っているだけ」だけど生きている。(できれば近い)将来の「ちったぁましな」生活のために。
今だって十分面白い。けど、もっと面白くしたい。
そう思うことって無理なのか?
面白さというのはまず第一に濃密さが必要。全てはそこから。
濃密さとは?
例えば、今も十分面白いと思うことは、不運にも今現在を生きられなくなったものたちへの鎮魂ともなる。
「ああ。死んじゃったのね。うん。でも自分もそのうち死ぬし。」って言うことも可能。でもこの場合は、鎮魂というよりも、冒涜に近い。自他ともどもの人生に対して。
死んじゃったら当たり前だけどそっから先はない。
他方、生きているものにはまだ先がある。
この厳然たる違い。それを無視して、「結局死んじゃったあたなも私も一緒。いつか死んじゃうんだし。」というのは冒涜とまでは言えなくとも、厳然たる差異を全く無視している。
では、現に今生きているものには何ができる?
とりあえず笑おうではないか。
生きられなかったものたちを思って。
いろんな社会福祉プロジェクト設計するのだってそれからでも何にも遅くはない。
「自他意識」を持ってしまった私たち。知らないこととはいえ、他者をただそれだけのことで抹殺してしまう可能性があるのだから。